夢オチはなぜ悪いのか?(4)
旧年中から続いてました「夢オチ」シリーズですが、今回で一応のピリオドにしたいと思います。書いていてわかったんですが、この問題なかなか奥が深い。コメントで指摘された作品で俺も読んでないものもあり、さらに勉強を深めていずれきちんとした文章にできたらいいなあと思っております。
今回は「異次元オチ」または「虚構オチ」とでもいいましょうか、そういうのを取り上げたい。これはしかし、俺が便宜上名付けただけなので、正式な名称なり、もっといい呼び方があるかもしれませんが。
これはどういうオチなのかと申しますと、一応夢オチなんですが、夢から覚めたら現実、ではなく異次元の(または虚構の)世界だった、というようなものです。前回述べた「二段オチ」の変化型ではあるのですが、ちょっと違うのでもう少し説明しましょう。
普通「夢」に対比される言葉は「現実」になりますよね。夢から覚めればそれは現実、通常はそう考えますわね。それが第一段階の夢オチだとすると、二段オチは「夢から覚めたと思っただけで、実は醒めてなかった」というものでしょう、これが第二段階。それで第三段階の異次元オチになると「夢から醒めたら、そこは別次元の現実だった」ということになるわけです。
でも、それって二段オチとどこが違うのでしょうか。俺の分類だとちょっと違うんですよ。つまり第一段階、第二段階ともに「われわれが確かに実在していると信じている現実なるもの」が前提となっているわけですよ。「現実」と「夢」がはっきり分けられている。ところが異次元オチの場合は「われわれが通常感じる現実」がどこにも存在しないんです。
実例をひとつお見せしましょう。左は『巨人の星』を題材に、俺が『サルまん』の中でやった夢オチの例なんですけど。
これは「巨人の星がもし中途で連載打ち切りになったら」という想定のもとに、いろいろなエンディング・パターンを作ったなかのひとつです。一応夢オチなんだけども、普通の夢オチじゃ面白くないので少しひねったんです。それでこの作品のポイントとしましては「夢の部分」がわれわれの考える「(巨人の星世界における)現実」であり、夢から覚めたらそこはただの現実ではなくて、「ありえないような現実」になっていることです。
「ありえないような現実」というのは、語義矛盾ですよね。でも「夢から醒めたらそれは現実」というのが正しいとしたら、とにかく飛雄馬は夢から醒めたんだから、読者はいかに居心地が悪かろうとそれが現実だと受け入れなければならないわけですよ!
ここでよくあるパターンとしては、本当はこれも夢で、さらに目が醒めたら豪邸がオンボロ長屋に変わっていて飛雄馬も読者も安心、というのがありますね。山田洋次の『男はつらいよ』シリーズが、多くは冒頭が寅さんの夢のシーンになっていて、タコ社長がお大尽でさくらがマリー・アントワネットみたいな格好で登場したりしますが、もちろん「あら夢だったのね」でいつものフーテンの寅さんが始まります(※註)。
それだと普通の夢オチになるわけですけど。そうではなくて、目が醒めたら夢よりとんでもない現実が待っていた、というのが「異次元オチ」のミソになるわけです。そして読者は居心地の悪い衝撃を受けたまま、宙づりにされて物語は終わるのです。
もちろんこういう物語は、たいてい読者の現実感覚を揺さぶるという目的を持っておりますので、居心地の悪い状態で物語を終えるのは当然なのですが。
最近の例では、映画『マトリックス』の一作目がこういう構造をとっていました。主人公のネオは平凡なサラリーマンなんだけど、ある日を境になんか変なことが立て続けに周囲に起きる。それを追っているうちに「実はこの現実は夢だった」と気が付いて、いろいろあってなんとか目が醒めたはいいがさあ大変、気持ちの悪いメカに人間が支配されて農園みたいに栽培されてましたあ!
ってネタバレ書いてますけどいいよね、あのくらい有名ならば。このパターンは、すでに死ぬほどあって、フリップ・K・ディックのもおおむねそうですし、諸星大二郎の『夢見る機械』とかも。いわゆるサイバーパンク小説というのも、人間の脳作用がもたらす現実感覚の虚妄が主題になっておりますし。まあこのへんの領域はうるさ方がたくさんおられるので、へたなことを書いたらヤバイのでこのくらいにしておきますが。
もちろんわれらが押井守先生の一連の作品もこんなのばっかりですよね。『うる星やつら2・ビューティフルドリーマー』以来、もうず~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っと夢と現実の境界をさまよい歩いておられる。さまよってない時は、立ち食いソバを食べているか、犬と戯れているか。それ以外はもうず~~~~~~~~~~~~(以下略)。とまれ、作家がいったんこのテーマにはまり込んだら大変だということですね。そのくらいこのテーマは魅力があるのだと思われます。考えてみれば、物語作家というのは「いかに本当らしいウソをつくか」に命をかけているわけですから。当然といえば当然かもしれない。
『ビューティフル・ドリーマー』とそっくりな構造を持っていて、パクリ疑惑すら囁かれている『オープン・ユア・アイズ』というスペイン映画もありましたね。それをさらにリメイクしたトム・クルーズ主演の『バニラ・スカイ』というハリウッド映画もありました。いずれもその、夢と現実のどんでん返しの連続で、お客はもうどちらがどちらかわからなくなるのがミソの作品です。
なんでこんな作品が成立するのかというと、そもそもマンガや小説、映画といった創作物そのものが虚構だからですよね。でもわれわれは、その作品を享受している間だけは、作品内の出来事を「現実」としてとらえているわけです。よく出来た作品であればあるほど「現実感」が強い。しかしそれはあくまでも作品内の現実(リアリティ)で、われわれの現実(リアル)ではありませんよね。
童話作家の佐藤さとるによれば、ファンタジーの本質はリアリズムであり、そのリアリティは作品の中にある「ルール」の首尾一貫性に基づく、のだそうです(「ファンタジーの世界」講談社現代新書)。ここでいうルールとはあくまでも虚構内現実のことで、「体重が十グラムで風に乗って空を飛ぶ少年」でも「午前三時にイヌに変身する少女」でもなんでもいいわけなんです。とにかく彼女は午前三時にイヌになる。そこからどういう物語が生まれるのか。その物語の中で、イヌになるはずが途中でネコになるとか、午前三時が午後六時であってはなりません。そこにはなんらかの理由がなくてはならないので、理由のないルールの変更はご都合主義と呼ばれます。
とにかく、まあどんな作品にもその作品を成り立たせるルールがあるのだと、そのルールが一貫していれば、それがどんな非現実なお話でも読者はそこに「現実感」を感じるのだということを覚えておいてください。
で、ここで話が戻るわけですが、『マトリックス』なんかの作品構造は「ある虚構内のルール」に「別の虚構内ルール」を衝突させているわけですね。それによって生じる「現実感覚の混乱=めまいのようなもの」が作品のおもしろさにつながっているのではないかと思うわけです。
そろそろ文章が長くなってきてこちらの頭もワヤクチャになってきましたので、このくらいにしたいと思いますが、最後に自分なりの究極の夢オチ映画だと思う作品を紹介して終わりにします。
それはデビッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』なんですけどね。おそらくリンチ作品でももっとも難解で、俺自身、最初見たときはなにがなんだかわかりませんでした。でもこれが一種の夢オチで、しかも夢の部分と現実の部分の時系列が、通常とは違っていることを念頭に置いてみれば、非常によくわかる映画だと思います。つーか、よくこんな映画を作るモノだとほとほと感心した次第。これについてはいずれきちんと述べてみたいと思いますが、面倒くさいのでこれっきりにするかもしれません。では、今日はこんなところで。
※註 余談ですが『男はつらいよ 寅次郎真実一路』はオタクのみなさん必見ですよ! なにしろ冒頭の夢オチシーンでは、寅が怪獣から地球を守る科学者で、出てくる怪獣が松竹が誇る宇宙大怪獣ギララなんですから! って、オタクなら常識でしたか、すみません。
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コメント
佐藤さとるの↑本、読んだことがあります。
ファンタジーとメルヘンのちがいを書いて
いましたね。
犬と人間がなんの説明もなく会話するような
物語はメルヘン。
ファンタジーでは、犬が人間語をしゃべれる
それなりの理由が必要~という違い。
混同して書かぬことというようなことが
書かれていたと思います。
投稿: 長谷邦夫 | 2005/01/05 00:09
「夢オチはなぜ悪いのか?」を楽しく読ませていただきました。
ふと思い出したんですが、以前ファミ通で原作を担当されていた「ファミ通のアレ(仮題)」の最後のオチって一種の夢オチなんでしょうか。
作中の登場人物が自分が置かれた世界を読者と同じ立場から認識すると言うのは夢オチに近いですよね。まあ元々主人公が竹熊先生そのものですから微妙なんですが、最後は写真のご本人が現れて漫画のご本人と争ったりするのでそう感じました。
投稿: クッキー | 2005/01/05 03:24
>長谷先生
「ファンタジーの世界」は名著ですね。あれだけ高度な内容が、あれほどわかりやすく書かれた本は他に読んだことがありません。ファンタジー作家に限らず、あらゆるドラマ作りに応用できる秘訣が書かれた本だと思います。
ところが、アマゾンで調べたらこれも品切れくさいですね。本当に、日本の出版事情はなんとかんらないものでしょうか。
>クッキーさん
「ファミ通のアレ(仮題)」をお読みでしたか。あれも絶版…って俺のはこんなのばかりだな。
指摘されて俺も思い出しましたが、あれはなんでしょう、夢オチと楽屋オチの複合ワザとでもいうんでしょうか。そうか、夢オチとは別に「楽屋オチ」という、もうひとつの禁断のテーマが出てきました。今度書きます。
投稿: たけくま | 2005/01/05 06:23
初めまして。
ちょっとこの系統が好きなのでコメントさせて頂きます。
『ビューティフル・ドリーマー』のパクリといえば『ダークシティー』だと思っておりました。落ちのビジュアルがあんまりにもあんまりなので。
この監督さん(アレックス・プロヤス)は「俺見たことないよ」と大嘘をついていますが、新作の『i,Robot』のビジュアルもかなり押井系が多いです。「俺見たことない」発言は『アトランティス:失われた帝国』の監督さん等に同様に見られる訳ですが。。ハリウッドの合言葉なんでしょう。
とりとめのない文章になってしまいましたが、またお目にかかれたら幸いです。取り急ぎ。
投稿: hideやん | 2005/01/05 10:38
デイヴィッドといえばクローネンバーグも夢オチ(オチてないけど)な映画が多いですね。夢に惹かれる言霊(名前)ってのもあるんでしょうかねえ。
投稿: mgkiller | 2005/01/05 10:56
>目が醒めたら夢よりとんでもない現実が待っていた
>読者は居心地の悪い衝撃を受けたまま、宙づりにされて物語は終わるのです。
>もちろんこういう物語は、たいてい読者の現実感覚を揺さぶるという目的を
>持っておりますので、居心地の悪い状態で物語を終えるのは当然
映画版エヴァンゲリオンを思い出しました。
最もあの映画で虚構から現実へ目を向けるのは登場人物でなく、視聴者でしたが…
投稿: 通りすがり | 2005/01/05 11:17
僕も通りすがりさんと同じでエヴァの映画を思い出しました。『ヴァニラスカイ』
もそうですが、なんでみんな「現実」に帰りたがるんでしょうね? 当たるもそ
うだったし。そのあたりがよく分からない。MATRIXのサイファーみたいな人がも
っといてもいいと思うんですが。
投稿: m_nakai | 2005/01/05 18:08
はじめまして。
「夢オチ」とは少し違いますが、「かってに改蔵」というマンガ(少年サンデーコミックス)の終わり方は、個人的には納得しました。
ネタバレしてしまうと、今まで散々続けてきた「わちゃちゃな世界」が心理療法的治療の一環(箱庭療法的とか、グループセッション的とか)だったりするわけですが、「現実」と「非現実」という意味では、一種の夢オチなのかな? とも思いました。
この終わらせ方には賛否両論あると思うし、「なんだ、逃げじゃん」と思う人もいるかと思うのですが、あくまで私の趣味として、きっちり消化させてもらいました。
「マンガ」でも「ドラマ」でも「映画」でも、最後にちゃんと終わらせてくれると、「ああ、作品」だと感じさせてもらえます。(「(わざと)後味悪い」とか「(明快に答えが出て)すっきりする」とか「怖さが後を引く」とか、いろいろありますが、形は違えど、きっちり終わらせてくれると助かります。意図的に何か(問題とか)を残すのも、ひとつの終わらせ方だと個人的には思います)…まあ個人的な趣味になりますが…
追記:
「サルまん」をスピリッツで読んでたクチなので、たけくまさんをもっと豪快(悪く言うと「とんでる人」…ゴメンナサイ)だと思っていたので。紳士的な文章に、いい意味で驚かせられました。
これからも期待しております。
投稿: J太郎 | 2005/01/05 21:59
竹熊さんの方法論に対する探求、本当に勉強になります。いやぁ、タダでこんなテキストが読めるとわ…。P・K・ディックは「宇宙の眼」「ユービック」辺りが今回のエントリーに沿っていると感じます。ところで夢ではなくて、妄想オチにした「東京大学物語」は…
投稿: vio | 2005/01/05 22:24
多摩美の学生です。今日の授業でここのことおっしゃっていたので早速のぞいてみました。無理だと思いますが、みんなの課題の漫画みたいです、CD-Rかなにかに焼いて是非販売してほしいなぁ(笑)
投稿: あとめ | 2005/01/06 00:02
勉強になります。
ところで虚実混淆では今 敏監督のアニメ映画『千年女優』は事例としてはどうでしょうか? これは「夢」ではなく「記憶の混濁」がテーマではあるんですが、そこから人生における真実って何なの? ということと、映画自体が「夢の装置」であることまでを一気に串刺ししてる点を興味深く観ました。
これまで挙がった例だと、物語がシーケンシャルに進むことを前提にしていますが、シャッフルしてもOKという点が実に映画的であります。
投稿: ロト | 2005/01/06 00:42
たけくま・・・先生久しボンジュル。
毎秒でワタクシの芸術的な夢中時脳波を送っているのに何故に言及してくれぬのだ。そんなに寝屁が偉いかシルブプレい?
夢オチを語っているのにボルヘスへの言及がないのは如何だろう?
彼にはギルガメシュ以前、と言うよりは世界最古の夢落ちアヴェク書き物語りから20世紀文豪の夢日記に至る好アンソロジー「夢の本」もあると云うのに・・・
夢オチを語るモノが夢見るモノの夢の中にしか存在し得ぬってイットウスリリングなネタ、アナタ何故避けます?
あなたはピリカの夢デスカ?
投稿: フランシス・ネムロー | 2005/01/06 01:15
>なんでみんな「現実」に帰りたがるんでしょうね?
ひとつには、やはり竹熊さんが本文で書いているように、現実感覚を揺さぶるためのものだから、
虚構と現実の間での葛藤を生じさせる必要があるというところじゃないでしょうか。
「この世界虚構なんだ。でも楽しいからいいや」
で終わってしまったら「現実」と「虚構」を対置させた意味があまりなくなってしまいますし。
「虚構」から「現実」へ帰ろうともがいた挙げ句に最後は「虚構」の世界を新たな「現実」として
受け入れてしまうという話だと、安部公房の「砂の女」が思い浮かびますね。
逆に、一旦は葛藤するものの最後は自ら望んで「虚構」の世界に残る話だと、有名どころでは
村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」なんかがそうですね。
あと、哲学的な視点で見ると、近代以降の「存在」に対する問いかけ、自我の問題などが大いに
関係している気がしますが、正直不勉強なもので詳しい説明はできないです。
ともあれ、この手の物語は色々なバリエーションがあって面白いですね。
ロトさんがシャッフルしている作品の例を挙げていますが、シーケンシャルでもシャッフルでも
なく、パラレルに複数の「現実」or「虚構」を提示していた例として映画「ラン・ローラ・ラン」も
挙げておきます。
投稿: nick | 2005/01/06 01:56
>ロトさん
あ、どうもです。ココログにかまけてmixiのほうは俺はすっかりさぼっちゃってますが、こちらでもよろしく。
なるほど「記憶の混濁」テーマというのもありますねえ。夢オチ関連テーマとしては面白い問題です。「千年女優」もそうですが、さっと思いつくところではバーホーベンの『4番目の男』とか。あれは重度のアル中作家が殺人狂の美女の家に紛れ込むんだけど、そこで行われていることが現実なのか、アルコールによる幻覚なのかわからなくなるのがミソでした。
>ネムローさん
ボルヘスはちゃんと読んでませんでした(笑)。「夢の本」は今度読んでみたいと思います。
投稿: たけくま | 2005/01/06 08:22
> 虚構と現実の間の葛藤
「オチ」をそのまま「笑い」に使ってもイケルと思います。そんで、それが即ち「遊び」(ゲーム・演技・酩酊・(あと1個なんだったっけ?))でしょう。
つまり、そういう葛藤が生み出すズレがゆらぎになり、モワレとなって新たな視座を作ると。
ゆらぎが安全な場合は笑いになり、危険な場合は恐怖になる。
笑いと恐怖は裏表だっていろんな人が言ってますけど、こういう構造だったら納得しやすいなと思っています。
んで、こういったゆらぎの感覚こそが人の創造性そのものではないかと。
笑いに鈍い人は創造性に欠けると言ってもいいんじゃないか、なんてことをね。
投稿: nomad | 2005/01/07 01:18
はじめまして
夢オチではないのですが、ジェニファー・ロペス主演の映画「ザ・セル」も記憶とか精神世界と現実感みたいなのを主題においてますよね。
ただ、あの映画、森万里子やマシュー・バニーやダミアン(デミアン?)・ハーストからのイメージの借用があからさまなのが気になります。僕が知らないだけかもしれませんがアーティスト本人達からの許諾を得たとか参加があったなんて聞きませんし・・・。
投稿: sedasou | 2005/01/08 02:36
サルマンが好きで、竹熊さんの解説には当時から感心させられていました。
そうなんですよね~。
夢おちって。
私は劇場で「マトリックス」をはじめて見たとき「なんだこれ!!諸星大二郎の『夢見る機械』のパロディじゃん!!」って思ってしまいました。
投稿: HAMADA13 | 2005/01/29 10:50
たけくま先生!
マルホランド・ドライブ見ましたが、当方思いますに、やはりこれも「夢→現実」の流れで描かれているのではないでしょうか?
武熊さんは「夢の部分と現実の部分の時系列が、通常とは違っている」と書かれていますが、当方の解釈は前半部が「ダイアンの見た夢」、そして後半部が「現実」だと思うのですが・・・・確かに現実における時系列の並べ方は通常と異なっていますが、前半部分が「夢」で後半部分が「現実」というのは通常の虚構落ちと同じではないでしょうか?
ご回答頂ければ幸甚です。
投稿: HAMADA13 | 2005/03/06 22:05
↑ええ、基本的にはHAMADAさんのおっしゃる通りなんですが、単純な「夢オチ」の構造にはなっていないと僕は思います。
そもそも、最初の「夢」が醒めたとき、現実のダイアンは死んでいて、前半部はいうならば「臨死体験」の幻覚みたいなものですよね。
それで後半部は少し時間が巻き戻されて、現実のダイアンは実はこうだった、という流れを改めて観客は見ることになります。ただこの映画、僕からみて面白いと思ったのは、「死」を結節点にして「夢」と「現実」が等価に描かれているところなんです。
少なくとも「あら夢だったのね」でチャンチャン、の結末ではない。あれを僕なりに正しい時系列に並べ返せば、
(1)ダンス美人コンテストで優勝したダイアンが女優目指してハリウッドに行くが、現実はうまくいかず、アパートで自殺する。
(2)死ぬ直前の臨死体験で、ハリウッドで大成功する自分の夢を見る。
(3)ミイラ化したダイアンの死体がベッドに横たわっている。
それで(2)からいきなり映画が始まるので、観客は混乱するわけです。途中で夢から現実(1)に戻っても、時間も同時に巻き戻っているので、単純な目覚めにはなってません。この構造をとることで、「夢」と「現実」が「死」という絶対的な終結の前に等価になっていると僕は思うわけです。
いやもちろん夢に比べた現実は惨めなものですし、しかも彼女は自殺したので今更どうしようもないわけですが、しかし死の直前、彼女は「あるべき自分」を夢として生き直した、ともいえるわけで。それがまた彼女の人生の悲劇性を高めているんですけどね。
夢オチとはいっても、こういう構造の物語を僕は他に見たことがなく、大変ユニークな作品だと思いました。
投稿: たけくま | 2005/03/06 22:45
おお、早速のご回答ありがとうございます。
納得しました。
ちなみにインターネットで見つけた「マルホランド・ドライブ」の解釈でよかったもののURLを下記に記しておきます。
http://www.ne.jp/asahi/hoth/press/other_films/2002/mulholland/mulholland.htm
投稿: HAMADA13 | 2005/03/06 23:07