コミックマヴォVol.5

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2005/03/25

手塚治虫の「もうひとつの顔」

kaeru-2しばらく覗いていなかった「サイトーのマンガニカ学習帳」で木川かえる氏の追悼を読み、ああ、そういえば先日亡くなっていたのだなあ、と思い出した。斎藤氏がメールで教えてくれていたのに、すっかり忘れていたのだ。

←写真は木川かえる師匠

木川かえる師は、マンガ家であり、また吉本興業の最古参芸人の一人であった。ジャズをバックにマンガを描くという「ジャズ漫画」の芸で知られる。以前、当ブログでウィンザー・マッケイについて書いたとき、マッケイの出自を「マンガ芸人」と紹介したが、木川師も、まさしく舞台上でライブでマンガを描く「マンガ芸人」なのであった

その人の死を忘れていた、というのも故人に対して失礼であるが、自分は木川師とは生前一面識もなく、また文章でその人となりを知るだけで、関東で生まれ育った俺としては、師匠の芸を見たことは一度もないのである。関西の人なら、たぶん知っている人もそれなりに多いと思うが。

http://www.nihonmangakakyokai.or.jp/sakuhin/k_kikawa.htm
↑木川かえる師のプロフィール

では、なぜ俺が木川氏に興味を持ったかというと、ひとつには日本では絶滅しかかっている「舞台でのマンガ芸」について調べてみたかったこともある。「漫芸」といっても、俺は木川氏以外には水森亜土くらいしかよく知らないのだが。漫画太郎とか、針すなおなんて人たちが、舞台で似顔を描くのを見たことはあるが、正直日本でのこの種のジャンルがどうなっているのか、文献も少なく、どう調べてよいかもわからない。そこでぜひとも最長老(であろう)木川氏にお会いして、教えを乞いたかったのである。

shintakarajimaもうひとつ、木川氏に会いたかった理由は、氏があの酒井七馬の弟子であったということもある(註)。酒井七馬は、今では手塚治虫の出世作『新宝島』の構成者(原作者)として知られているが、関西漫画界の大御所で、後進の育成に熱心だったことも有名である。終戦直後の一時期、酒井のもとで木川と手塚は兄弟弟子の関係にあったはずで、木川氏はこの時期の手塚を知る、貴重な証人でもあった。

※註 コメント欄でのマンガ研究家・宮本大人氏のご指摘により、木川師匠が酒井七馬の弟子だというのは誤りだということが判明しました。どうも、僕が勝手にそう思いこんでいたようです。ここに謹んで訂正させていただきます。なお、以下の内容には特に差し障りはないと思えますので、このまま掲載します。

しかし酒井と手塚は、「師弟」とはいえその関係はなかなか微妙なものがあった。遺された資料を見ても、酒井は手塚のことを完全に弟子扱いしているのだが、手塚は酒井について「世話になった先輩」ではあっても、師匠とはまったく考えていなかったようなのだ。『新宝島』は酒井の原作があるとはいえ、手塚は勝手にストーリーを改ざんしているし、ほとんど自分の作品としてこれを描きあげたつもりらしいことは、当時の日記から知ることができる。

ところが、その完成した原稿を、酒井がバッサリと割愛して一部(特にターザンのキャラクター)を自分で描き直した。これに対して手塚は激怒、以後酒井との関係を絶ったばかりか、晩年になって全集に『新宝島』を収録する際、全面的に描き直し、作品における酒井の痕跡を完璧に消去したのであった。

この時期のことについては手塚の証言があるのみで、実際はどうだったのか、よくわからないことが多い。わずかに残る酒井サイドの資料としては、酒井の晩年の弟子であった西上ハルオ氏の証言があるが、これによると、酒井は手塚をよく連れ回し、舞台や公園などで「漫芸」を披露する際の、アシスタントとして使っていたという。

teduk-akodeion具体的には、舞台で手塚がアコーディオンを弾き、それをバックに酒井がマンガを描いていたそうだ。だがこのあたりの事情を手塚は「黒歴史」と考えていたのか、ほとんど語っていない。

しかし、手塚がライブの「漫芸家」としても抜群の才能を示していたことは、数多くの証言がある。特にこのあたりのことがハッキリ書かれているのが、マンガ家・鈴木光明マンガの神様!―追想の手塚治虫先生(白泉社)である。

同書には、手塚が行った「神業」の例がたくさん出てくるが、中でもすごいのは、あるデパートでのサイン会で手塚が行ったパフォーマンスであろう。それは、会場にいた子供のデタラメなラクガキに、手塚が筆を加えて見事な絵として完成させるというものだ。その部分を、同書から引用してみよう。

《中学生くらいの男の子が指名され、司会からマジックが手渡されました。
 男の子は、いきなりムチャクチャな線を描き殴りました。中央に大きな渦のようなものを描き、周りに長い線、短い線を乱雑に引き、あちこちをグシャグシャに塗りつぶしたのです。
 出来上がったのは、まるで意味不明の“落がき”でした。
 手塚先生は、これに手を加えて、一枚の絵に仕上げるというのです。(中略)

 すぐにマジックを手にすると、手塚先生は、猛然と絵を描き始めました。
 “落がき”に何をどう描き足すか、なんて考える時間などあるわけがありません。
 お客さんたちの間に、先生の物凄いスピードに対する驚きの声が上がりました。その早いこと早いこと、見る見るうちに模造紙いっぱいに縦横無尽、ダイナミックな線が走ります。まるでフィルムの早回しを見ているようで、とても人間技とは思えません。
 あっという間に全てを描き終えた先生がマジックを置いて向き直ると、訝しげなどよめきが起こり、客席が揺れました。
 出来上がった絵が、何を描いているのかほとんどわからなかったからです。

 最初に描かれた“落がき”の脇には人間――子供らしいモノが描かれてはいるのですが、実に妙な描き方をしているのです。頭を下に向け、足を上にしています。逆立ちにしては余りにもへんてこりんなポーズです。まるで海中のクラゲみたいに宙を漂っているような感じです。その周りにいろんなものがゴチャゴチャと描き込まれているのですが、わけのわからなさ、意味のなさという点においては“落がき”のみの状態よりもっとひどくなっています。(中略)それはよく言ってもアヴァンギャルドな抽象画、のようにしか見えなかったのです。

teduka-mangei そんな反応も、手塚先生にはあらかじめ予想していた通りのことでした。
 先生はいたずらっぽいほほ笑みを浮かべながら長い両腕をいっぱいに伸ばして(中略)、パネルのへりを掴みました。そしてくるっと全体を逆さまにして見せたのです。
 九割方失望しかけていた皆があっと息を呑みました。
 わけのわからなかった“絵”が、逆さまに置かれると、実に見事なひとコマのマンガになっていたのです。

 それは、少年が池辺で釣りをしている構図でした。
 背景には崖が描かれています。大きな渦は、水面に生じた波紋です。その真ん中に垂直に下りている線は釣り糸です。
 少年は目を皿のようにして渦の中心をにらんでいます。ランニングシャツ姿で大きな麦藁帽子を被っていました。》
(引用図版は同書、鈴木光明氏による挿絵)

引用が長くなったが、漫芸家としての手塚治虫の凄まじさを知ることができるだろう。まるでモーツアルトが逆立ちしてピアノを弾いた逸話を思い起こさせるが、これは鈴木氏が自身の目で目撃した事実である。ちなみにこうした即興の絵を正式には「席画」と呼ぶらしい。

このようなライブ・パフォーマンスとしてのマンガは、ある時代まではマンガの重要なジャンルのひとつであったと思われる。が、ライブの常で記録がほとんど残らないのが残念である。

手塚治虫のもうひとつの顔を知る意味でも、この分野の研究が本格化することを望みたい。それにしても、木川かえる師匠が亡くなられたことは、返す返すも残念であった。ご冥福をお祈りします。

◎このエントリへのコメント→★

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アニメ・コミック」カテゴリの記事

コメント

昭和62年、愛知の岡崎で開かれた「葵博」という地方イベントに、その総合プロデューサーだった手塚先生が来場された事がありました。
中央広場のテントの下で、ホワイトボードに貼られたB紙にマジックで次々とアトムやBJ、三つ目にリボンの騎士等、色んなキャラを描き、観客の子供たちに簡単なクイズを出しては解答者にあげていました。
お歳のせいか、慣れない体勢での描画のせいか、ご自分のキャラなのにイマイチ似てない似顔絵風?の絵に感じたのですが、その速さには驚いた記憶があります。
私が生手塚を見たのはその一度だけでした。

でも「慣れない」どころか若い時からそうした事もされていたんですね。

投稿: ぽ | 2005/03/25 10:17

ちょっと変則的かもしれませんが
松本人志が一人ごっつで似たようなことしてましたね。

投稿:   | 2005/03/25 10:46

宮本大人です。
竹熊さんにはお話したことがありますが、僕は木川かえる先生に生前一度お話をうかがいに行ったことがあるのですが、まだ論文にまとめることができないうちに訃報に接して驚き、また申し訳なく思っています。
木川さんには「ぼくは人生のすべてを漫画から学んだ」(ひらく、1997年)という自伝があります。
まだアマゾンでも入手できます。
それを見る限り、木川さんが酒井七馬の弟子というのは誤りだと思います。
中野晴行さんの「手塚治虫と路地裏のマンガたち」(筑摩書房、絶版!乞う文庫化)に詳しいですが、大阪赤本漫画界には酒井七馬とならんで、もう一人ボス的な存在として大野きよしという人がいて、木川さんがよく出入りしていたのは大野邸の方だったようです。
大野は「自分の作品をどんどん描く一方、月に二回、訪れてくる若い漫画家志望者のために寄り合いのようなものを開いて」いて、木川さんも「漫画を描いては大野さんのお宅にうかがい、批評してもらいました」と述べています(木川前掲書、80ページ)。
酒井も似たような集まりをもっていたようですが、僕がうかがった話では、当時木川さんはもちろん酒井七馬のことは知っていたけど、酒井邸での集まりのことは知らなかったとのことでした。
ちなみに、木川さんが手塚と出会ったのも大野邸だったと記されています。手塚は酒井とも大野とも頻繁に接していたようです。

投稿: 宮本大人 | 2005/03/25 10:54

↑あ、そうだったんですか。これは失態(笑)。
以前、といっても20年くらい前ですが、木川さんが酒井や手塚についての思い出を語ったインタビューを読んだ記憶があったので、すっかりそう思いこんでいました。(手元にその雑誌がないので、確認しないで書いてしまいました)。

ということで、間抜けなことになってしまいましたが、宮本氏がそう言うからには間違いないと思います>読者のみなさん。

うっかり間違いを広めてしまうところでした。一応、文章自体はそのままに、訂正文を挿入しておきます。こういうふうに、さっと訂正入れられるのがブログのいいところですね。

ところで酒井と手塚の関係で、酒井のマンガ・パフォーマンスを手塚が手伝っていたという西上ハルオ氏の証言に関して、何かこれを裏付ける資料はありますでしょうか>宮本さん

投稿: たけくま | 2005/03/25 11:46

子供の落書きにライブで描き足す ってのは『ピンポンパン』でのカータンの印象が強く残ってます。

子供ながらに「カータン、ヒネリが足んねーよ」とか評論目線で偉そうに観てた嫌なガキんちょでしたが・・

投稿: jk | 2005/03/25 11:57

ミヤモトです。さっきのコメント、急いで書いたので、今読み返すと微妙に変な文章でお恥ずかしいです。
西上さんにも以前お話をうかがったことがあるのですが、そのときは描き版の技術の話を中心にうかがったので(西上さんは漫画家になる前に描き版職人をされていたのです)、その話は出なかったと思います。>酒井&手塚のパフォーマンス
西上さんは今もお元気で、宝塚造形芸術大学のマンガ・アニメコースで先生をされていますから、直接確認するのが一番早いと思います。
僕がすればいいのですが、今ちょっと取り込み中なもので…。

投稿: 宮本大人 | 2005/03/25 17:04

↑いやいや、そんな。僕も昨年、広島アニメ映画祭で西上さんにお会いしました。そのときは挨拶程度で別れてしまったので、近々改めて連絡をとってみたいと思います。

投稿: たけくま | 2005/03/25 17:22

この手のパフォーマンスは石森さんとか長谷さんとかもやられていたそうですが(『手塚治虫物語』のなかにあったような記憶が)

投稿: ああ | 2005/03/26 01:45

>ライブ・パフォーマンスとしてのマンガ

日本テレビ系列で放送されていた「お笑いマンガ道場」も
大喜利式に出されたお題を皆で漫画で答えたり、
鈴木義司氏富永一朗氏の両人が漫画を使って互いを罵り合ったりして、
ライブ・パフォーマンスとしてのマンガの歴史の一翼を担っていたと思うのですが。

投稿: 忍天堂 | 2005/03/26 09:20

ボクにとって、マンガ芸人と言えばマンガ太郎です。子供のころ、演芸番組に出てくるととても嬉しかったのを覚えています。
検索したら、まだ現役でマンガ芸をやってらっしゃるようですね。早稲田大学人物研究会のページの会見録にマンガ太郎の会見録がありました。http://www.geocities.jp/jinbutsuken/index.html

投稿: ガマ | 2005/03/26 12:28

赤塚不二夫のサイン会のときに手伝った
程度で、そんなに回数をこなしていたわけ
ではありません。

昔々のSF大会では、1回、手塚先生と一緒に
やりました。
このときは、先生が気を使ってくださって
<赤塚式>の遊びで、合作したりして
遊びました。
会場の人に、模造紙上にちいさな文字を
幾つか所々に書いてもらい、その字を使って
二人で1枚の絵を合作しました。
ゆっくり描いてくださったので、ホッと
しましたね。

投稿: 長谷邦夫 | 2005/03/27 00:38

 官能劇画界の重鎮・笠間しろう氏も、昨年行われ
たトークライブで漫芸を披露しておられました。
 ホワイトボードにサラサラッと描かれた女体の絵。
それに少々手を加えるとあっという間に龍の絵に変
わってしまうというもの。他にもいくつか披露して
ましたね。

 走り書き程度の筆運びでしたが、完成されたもの
は見事な威光を放っておりました。

投稿: ガンタ君 | 2005/03/27 01:09

ガマさんが紹介してくれたマンガ太郎のインタビューはなかなか貴重ですね。しかしこういうものもネットで読める時代なんだなあ。

「お笑いマンガ道場」は、まさに漫芸、というかライブ漫画による大喜利ですよね。

漫画家にも、即興がきくひとときかない人がいて、相原コージ君なんて下書きをしないと絶対に描けない人で、よく色紙とか渡されると困ってましたね。

投稿: たけくま | 2005/03/27 18:04

こんにちは、まだ読んでくれますかね、このコメント。例によって誰もツッコミ入れてない?ようですが(「問題ない、予定通りだ。」by碇ゲンドウ)、敢えて。

本文より;
>モーツアルトが逆立ちしてピアノを弾いた逸話

それは「柔道一直線」(実写版)で近藤正臣がやった”芸”でしょうが!

投稿: 居士 | 2005/03/29 10:33

木川先生にうかがった面白い話をひとつ。

テレビ創世記、関西では木川先生ひっぱりだこだったのです。
天気予報のバックで、水森亜土さんのようにガラスにマンガを描いたりしていたのですね。
で、ある番組で
提灯を描きまして、これにメガネとちょび髭を描いたのですね。
とたんにTV局の玄関先には黒い車がズラリ!
木川先生は裏口から逃げたのだそうです。

投稿: ランプ | 2005/03/29 11:32

>居士さん
いや、映画の『アマデウス』に、モーツアルトが余興で逆立ち(というか、仰向け)になって頭の後ろのピアノを弾くシーンがあるんですよ。
『柔道一直線』のあれは、逆立ちではなく足でピアノを弾いたのでは? 最後に逆立ちしたっけ?

>ランプさん
おおこれはランプさん。木川先生に会った人間がこれだけ来るブログも珍しいかも。

投稿: たけくま | 2005/03/29 13:42

こんにちは。
>いや、映画の『アマデウス』に、モーツアルトが余興で逆立ち(というか、仰向け)
>になって頭の後ろのピアノを弾くシーンがあるんですよ。

ああっ!たけくまさん一流の密かなボケじゃなかったんですかっ。そういえばアマデウスでそんなシーンがありましたね。ツッコミのつもりが正反対になってしまいました(汗)
余談ですが「マドモアゼルモーツァルト」でも彼を天真爛漫な天才として描いていたと思いますが、「アマデウス」の醍醐味はサリエリにどれだけ感情移入できるかによると思っています。

>『柔道一直線』のあれは、逆立ちではなく足でピアノを弾いたのでは?
>最後に逆立ちしたっけ?

ちょっと検索してみたら逆立ちはしていないようです(笑)、あと同じ事が出来るのはドカベンの殿馬だけという記述があって笑いました。

投稿: 居士 | 2005/03/29 17:53

たけくま様、始めまして。那須監督逝去の折、2CHデビルマン・スレから飛んできて以来、こちらを愛読しています。
「漫芸」に関する情報なのですが、本日刊の「日刊ゲンダイ」の「あの人は今」のコーナーで、雷門獅篭という落語家さんが紹介されていました。記事によると、この人は「漫画も描ける落語家・立川志加吾」として有名だったそうで、週刊モーニングに連載を持っていたこともあるそうです。
現在33歳、名古屋で活躍されているとのこと。
既にご存知かもしれませんが、ご報告まで。

これからも読ませて頂きます。
それでは。

投稿: スペル悪魔 | 2005/03/31 20:48

ココログの操作に不慣れで、同じトラックバックを 2 回送信してしまいました。
目障りなら一方を削除してください。
(両方削除されるとヘコみますが‥‥)

余談ですが、『アマデウス』でのモーツァルトの逆さピアノですが、同じようなことをエルトン・ジョンがライヴで演ってました。

投稿: わさび | 2005/04/01 11:56

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