コミックマヴォVol.5

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2005/10/05

『テヅカ・イズ・デッドを読む』補足

『テヅカ・イズ・デッドを読む(2)』のコメント欄で、マローさんが次のようなコメントを投稿されました。

《思いつきですが・・・強いライバルが次から次へとというジャンプスタイルって、かつて手塚先生がライバル視していた福井英一さんのスタイルのような気がするのですが・・・いやイガグリくんとか知らないのであくまで推測なんですけど。》(マロー)

これへのレスを書いていたら、長文になり、しかも重要な内容を含んだと思いましたので、改めてエントリとして独立させます。

>マローさま

闘いの連続でストーリーを構成する作劇は、俗に「御前試合もの」(または「十番勝負もの」)といって、大衆文芸でははるか以前からあるものです(おそらく江戸時代から)。お殿様の御前で、諸国の豪傑が次々に試合をし、誰が「天下一」かを競うというもので、実は伝統的な娯楽のテクニックなのです。

が、これは手塚治虫の近代的なドラマツルギーとは全く対立するものです。手塚は物語を大河や大樹によく例えていて、河の本流(または樹の幹)のようなメインプロットがあり、そこにさまざまな支流(枝)が絡まって複雑なドラマを構成するが、最後は再び本流(幹)に戻って大海(または大地)と融合するというものです。

すこぶる全体的・立体的・構成的に物語を考えていたことがわかります。手塚が好きだったクラシックの交響楽のようなイメージを、ストーリーに対してもっていたのでしょう。

細かいユニットの繰り返しである「御前試合もの」と比べ、複雑なプロットを絡ませながらも決して「全体」を見失わないのが手塚ドラマで、物語全体の中での盛り上がりや終わらせ方(つまり、起承転結)を重視するため、多くの作品は「5巻以下」で終わっています(例外は「ブッダ」「陽だまりの樹」など。「鉄腕アトム」や「ブラックジャック」は20巻を超えているが、これらは短編連作なのでこの議論からは除外。「火の鳥」も同様)。ほぼ間違いなく、手塚は「最後までストーリーを考えてから」執筆に入っていたものと思われます。途中で細かい修正があったとしても、当初の予定は基本的に貫いているのです。

「御前試合もの」やあるいは西遊記のような「道中記もの」は、はじめと終わりはあるとしても、基本は「おなじことの繰り返し」であって、これは「串団子形式」と呼ばれることがあります。一方、複雑なサブ・プロットを絡めながら
進める作劇法を「しめ縄形式」と呼びます。

「御前試合もの」を成功させるには「どれだけユニークな相手」を設定するかにかかっていて、即ち高度にキャラクター主義になります。

一方の手塚のような作劇では、キャラクターは「物語に奉仕する」役割になります。もちろんそこには魅力的なキャラクターがなければなりませんが、その魅力がドラマの要請を超えて突出することも、また避けねばなりません。初期の手塚作品に特定の主役がない(または主役が複数いる)「群像劇」が多かったのは、そのためではないかと思います。

ちょっと、これから仕事で外出せねばならないので、今はこのくらいで。

◎このエントリへのコメント→★

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コメント

>多くの作品は「5巻以下」で終わっています
 私は「ブッダ」や「BJ」くらいしか手塚作品を読んだことがなかったのでこの事実は初めて知りました。

>細かいユニットの繰り返しである「御前試合もの」と比 >べ、複雑なプロットを絡ませながらも決して「全体」を >見失わないのが手塚ドラマで
「鉄腕アトム・プルートゥ編」は御前試合ものに近い形でアトムの中でも一番人気があったそうですが、御前試合もののような戦いを否定しているように感じました。

投稿: 寿 | 2005/10/05 12:39

史上(地上だったかな)最強のロボット篇のことですね。あれは横山光輝の忍者まんが『伊賀の影丸』(昭和36~41年)へのライバル心から始まったものだと以前どこかで耳にしたことがあります。

まんがでの本格トーナメントものというとあれが最初だと思います(萌芽はすでにイガグリくんにもある)。もっとも山田風太郎の忍法帳シリーズが元ネタらしいのですが。

投稿: Aa | 2005/10/05 12:52

こんにちは。

主題とは外れてしまいますが、

> ほぼ間違いなく、手塚は「最後までストーリーを考えてから」執筆に入っていた

についてなのですが、そうとも言い切れないのではないかな、と思いました。

かつてより、僕個人としては、手塚治虫は結末を書くのがそれほど上手くない、というか、あんまり拘ってないのではないかと考えています。もちろん例外はありますが、クライマックス(一番描きたい部分)は多分決まっていると思うのですが、起承転結の結部はどうかなぁ、と言う印象です。
「火の鳥」の「望郷編」で、角川版にするときにシャム双生児の問題があったにせよ、オチがまるっきり変わったりしてしまっている例などを考えると、拘わりのなさが伺えるような気がします。

投稿: すずき。 | 2005/10/05 13:36

連載とともに当初の予定を変えてしまうことがよくあったと言うべきでしょうね。

『BJ』はほんとうはお金の亡者としてワルの道を歩ませるつもりだったのが、読者の反応が良くてそれでへそ曲りヒーロー路線に変わったというのは比較的よく知られた話ですし、『鉄腕アトム』の「ZZZ総裁」ももともとは世界連邦の長と犯人が同一人物という裏設定だったものが、それじゃつまんないと思って双子オチになったと本人が解説していました。

投稿: Aa | 2005/10/05 13:55

なるほど、「御前試合もの」という大衆文芸は昔から存在していたのですね。
大変勉強になります、ありがとうございました。
うーん、マンガばかり目がいってしまって、いろいろな方面からもっと
アプローチしなければならないのですねぇ・・・。

手塚治虫のドラマツルギーに関しても納得しましたが、連載とともに当初の予定を変更して
オチを変えてしまったエピソードなどを見るにつけ、「ドラマの成立」と「エンターテイメントであること」の
狭間のなかで手塚先生が苦しんでいたのかな、という気がしてなりません。

>「串団子形式」「しめ縄形式」
「サルまん」の「とんち番長」が典型的な串団子形式で描かれているのは、
相当なアイロニーを含んでいたのですね(笑)
でも・・・すっごく面白くて素で読みたいと思ったんですが「とんち番長」!
・・・いやまてよ、作中の「相原・竹熊」コンビが知恵を絞って展開を考えてる
様子も含めての面白さもあったのかな・・・

投稿: マロー | 2005/10/05 16:46

>「御前試合もの」を成功させるには「どれだけユニークな相手」を設定するかにかかっていて、即ち高度にキャラクター主義になります。

「キン肉マン」が、そうかな。キャラのほとんどは、読者の投稿だけど。

投稿: 西村 | 2005/10/05 23:26

月下の棋士とか

投稿: Aa | 2005/10/06 00:30

「キン肉マン」は「七人の悪魔超人編」からヒートアップしていきました。
キャラはもちろん読者(素人)作で(。_。)

ドラゴンボールや北斗(&とんち番長)もそうですが
やがて主人公の出生の秘密とかルーツが絡んでくるっていう。

御前試合も「地上最大のロボット」くらいの尺がいいのか・・
って今読むとこんな短かったっけ?ってビックリです。

投稿: syuu@限りなき戦い | 2005/10/06 02:07

「地上最大のロボット」は、確かにアトム史上最大の人気作になりましたが、ご承知のようにバトルものであります。

これが1964年発表で、アニメのアトムが始まった翌年のことですが、このあたりから手塚の中ではアトムに対する愛憎が見え隠れするようになります。そしてとうとう66年8月号の「話の特集」に発表したエッセイで、

「ぼくはアトムをぼく自身最大の駄作の一つと見ているし、あれは名声欲と、金儲けの為に書いているのだ」(「話の特集」66年8月号「一匹狼になりなさい」)と、露悪的な発言を繰り返すまでになるのです。

直接「地上最大」が原因とは言ってませんが、テレビアニメによって盛り上がったアトム人気にあわせて作った話であり、バトルものであると同時に、手塚としては珍しく「強い奴のインフレ」を起こした作品でもある。このあたりから徐々に手塚はスランプに陥っていくわけです。

投稿: たけくま | 2005/10/06 04:55

70年代生まれの私が最初に目にしたジャンプスタイルは、『ゲームセンターあらし』(コロコロですけど)だったような気がします。
「スーパーノヴァ」でチャクラ開きまくりのあらしには「?」という思いがしました。
すがや先生もこのブログをご覧になっておられるようなので、当時の心境などをうかがいたい気持ちがあるんですけど(図々しくてすいません、『こんにちわマイコン』も愛読させていただきました)。

投稿: 坊や哲 | 2005/10/06 09:04

>テレビアニメによって盛り上がったアトム人気にあわせて作った話であり

TVのほうは次第にプロレスものになっていったことを自伝でも悔やんでいた記憶があります。

この路線はその後『ウルトラマン』に受け継がれていったのココロ~

投稿: Aa | 2005/10/06 11:29

キャラやバトルがメインのものは、物語至上の立場からみると、性的にノーマル(あえてこの言葉使います)嗜好の人からみた
フェチシズムみたいなものってことなんでしょうか。

念のために言っておくと、どっちが正しいとか優れてるってことを言ってるのではありません。

投稿: おやつはゾンビ | 2005/10/06 11:39

御前試合の形というのもひとつの様式化なんでしょうね、
それ自体は最初非常に新鮮なものだったとしても、
いつしかひとつの型になってしまう、

自由なドラマツルギーとしてはじまったタイトルが、その型に変化すると、
「ああ、またあれか」という、
そういう反応になってしまう。

なんとなくですが、最近のマンガはゲーム文化からの影響が強い気がします、
対戦モノだったり、どこかドラマ性とは乖離した戦いのための戦い、
みたいな思想というのは、多分にゲームの影響かな、とも思います。

投稿: まーとれっと | 2005/10/06 13:01

ジャンプについてちょっと思ったのですが、

ドラゴンボールで「強さのインフレ化」を避けられなくした決定的要因は、強さを”数値化”してしまったスカウターの存在が挙げられると思います。ゲームの影響というのはこういう部分に出ていますね。

しかしたけくまさんが「ドラゴンボール」を読むのを止めたのは天下一武道大会あたりというのがキーワードなのかもしれないです。
つまり「なんだよまた”御前試合”ものかよ」みたいな印象ではなかったのかと。
その時点で、物語の行く末が予想ついてしまったのが「つまらなくなった」ということでしょうか。

それに対してゲーム世代が違和感を感じたのはおそらくスカウターが登場したあたりだと思うのです。つまり「なんか、数字で戦闘力表すのって、ゲームみてーだな」と。
ゲームならば、ラスボス倒して終了ですから、読み手としてはフリーザを倒すまでは物語に熱中できるわけです。

・・・ところがフリーザ(ラスボス)倒してもゲームは終わらない。ここでようやく、物語の崩壊を感じられることができたと。
だから「ドラゴンボール」でその崩壊を味わったものは、戦闘能力が”数値化”された時点で、たけくまさんが天下一武道会で読むのをやめたように、そのマンガを読むのをやめるかもしれないです。


「H×H」などは、一つの章を6巻に分けることによって、手塚治虫の火の鳥の「~編」のようなドラマツルギーを維持しながらも、戦闘モノとしてジャンプスタイルにも対応していますね。念能力という設定も、ギリギリのところで「強さのインフレ化」を防いでいるように思えます。

「ジョジョの奇妙な冒険」がジャンプにおいてその手法の先駆けだったとは思うのですが、キャラクターの戦闘での駆け引きがあまりにも難解になりすぎて、少年誌ではウケが悪くなってしまったのが残念です。

・・・ちょっと言いたいことが多くてまとまりがなくなりそうですのでここらでやめます・・・

投稿: マロー | 2005/10/06 15:25

えっと、小説の話しで言うと、高橋源一郎が言ってたんですが、エンタメ系小説と純文学(高橋は「非エンタメ」という方が性格だと述べていた)の違いは、展開やエンディングが読者に了解されているのがエンタメ、了解のないのが非エンタメとのことです。喩えとして、幼児に物語り聞かせる時、わざと違うエンディングにしたら幼児は怒るでしょうと言っていましたが上手い喩えだと思いました。

で、マンガで言うと楳図さんなら「へび少女」はエンタメ、「私は真吾」は非エンタメということになるんですかね。手塚さんの作品は確かにエンタメ系は意外と少ないかもしれませんね。手塚さんの知性は結末や展開の分かり易い物語を描くことを許さなかったのでしょうか。
ジャンプで言うと、「ジョジョ」「H&H」「Death Note 」は非エンタメの要素を上手く取り入れているというところでしょうか。このへんはターゲットの読者の年齢も高いでしょうから。長々とスミマセンでした。

投稿: 匿名氏 | 2005/10/06 17:45

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投稿: 釣吉丸 | 2005/10/06 18:45

強さのリセットというのがあって、
ジョジョはうまくそれに成功してたように思えます。
時間を止めれる究極キャラが登場しても、
次のストーリーに突入したら違和感なく弱くなっている。
それによって強さがリセットされてインフレを回避して、
うまく延命できてたように思います。

戦闘の基本構造も、ある法則の枠組みの中での知略を競うものであり、
モチベーション重視(車田正美)や友達が多いほうが勝つ(ゆでたまご)ものより、
強さのインフレを回避しやすかった。

ただ今度はスタンドの奇抜さのインフレに突入してしまい、
ワケわかんなくなっちゃいましたね。
ジョジョマニアの私でもツラいのだから、
こりゃあ他の人はしんどいだろうと。

実はデスノートもある法則の中での知略を競うものなので、
実にジョジョ的な構造ですよね。
デスノートがスタンドで何のさしつかえもない。
だけどこれまた知略の複雑さのインフレに突入しがちで、
登場人物が混乱してることを隠さなかったりします。
製作サイドもインフレに対して自覚的ですよね。

うまい回避や延命の方法はないのかと思うわけですが、
誰もが失敗するところを見ると
難しいんでしょうね。

投稿: | 2005/10/06 19:05

 私のなかで「強さのリセット」をする漫画といえば、「世紀末リーダー伝たけし」ですね。
 ワイド版で12巻ほど出ていますが、新しい章に入る度に、“今までとは違った強さの計り方”を導入することで、インフレを抑えようとしています。

アレはうまいやり方だなーとか思ったり。

投稿: 牌_フェディダ | 2005/10/06 21:12

作者がリセットされて終わり

投稿: Aa | 2005/10/06 22:27

でも強さの数値化は実はドラゴンボールよりキン肉マンのほうが速いですよね。
ウォーズマンが100万パワーで、
バッファローマンが1000万パワーとかで。

投稿: | 2005/10/06 22:50

アトムでも誰それ○万馬力というのはありました

投稿: Aa | 2005/10/06 23:31

「漫画がつまらなくなった、変わった」
のではなくて
「漫画が終わって、漫画ではないものになった」

のではないでしょうか。
いがらしみきおが目指している漫画と、現在の売れ筋漫画が同じものだとはどうしても思えません。

「漫画」と「漫画ではないもの」は全くの別物とすると、たけくまさんが漫画を読めなくなってしまった理由も解決するのではないでしょうか?
何故なら両者は別物なのですから。

投稿: higa | 2005/10/07 00:07

(僕において)ジョジョは第二部までと第三部以降は別物れす。
数値的な強さをリセットして「スタンド」という概念が登場したのですが
「よーするに、なんでもありじゃん・・」と正直白けてしまった。
マンガだから何でもありなんですけど、第二部までの生物学的理屈?が好きだったので
逆に飛躍が過ぎてノれなかったです。

読者が勝手にふりかえれば、ですけど
カリスマ的なラスボス(ラオウ・ディオ等)を倒したあたりが引き際なんでしょうか。

物語のピークを見極めて完結すると作品が締まるのに。。
商品としてはダラダラのがいいんすかね。

投稿: syuu | 2005/10/07 00:22

「うしおととら」は御前試合形式と大河形式がうまく融合した作品ではないでしょうか。強さのインフレも起こってなかったし。

投稿: 須磨 | 2005/10/07 02:46

 はじめまして。
 いつもブログを楽しみにしております。

 年を取ってきた人が「最近の漫画は面白くない」という場合、多くの場合は単に「経験値の増加による慣れ」ではないかと思います。

 初めて触れたときには、ストーリーでも、表現でも、全てが新鮮で楽しく感じるものですが、何百冊、何千冊と読んでいると、大抵のストーリーは展開を大体予想できるし、コマ割りや演出にせよ衝撃を受けるようなものは無くなっていきます。

 感性云々じゃなく、年齢を重ねる=沢山の漫画を読み尽くす=慣れてしまって驚きが無くなる、ということじゃないですかね。
 その証拠……というには狭い範囲のサンプルですが、数年前、私の本棚の「北斗の拳」をきっかけに漫画に目覚めた60歳の父は、描かれた年代に関係なく色々な漫画を楽しんでいます。
 それは、漫画に触れたのが遅く、まだ何を読んでも新鮮だからじゃないかな、と思いますが、どうでしょうか。

投稿: ウラキ | 2005/10/07 13:39

>坊や哲さん

『ゲームセンターあらし』のジャンプスタイルの戦いは、テレビアニメにもなった連載終盤になって目立ってきた傾向だと思いますが、「次号に続く」という連載になったのは、ほんの数回しかありません。

 基本的には「コロコロ本誌」では「ご町内+α」レベルを中心に、ページの多い「別冊コロコロ」では宇宙やら異次元やらのスケールの大きな話を中心にしていました。異次元や宇宙に行っても、必ず、元の世界(ご町内)に戻るのが基本路線でもありました。

 次第に大げさになる一方で、ご町内レベルに戻らなくなってきたこともあって、もっと「マンガの原点に戻った作品を……」という意識もあったりで、『こんにちはマイコン』を描きました。

 画力が足りなかったために、せっかく青年誌、少年誌にストーリー作品が掲載されるチャンスがあったのに、ことごとく討ち死にして、絵はシンプルですむ『こんにちはマイコン』系の情報マンガ、学習マンガに転向してしまったわけです。こちらは画力よりも、シンプルでわかいやすい構成や企画力が優先されましたので、その後もなんとか持続することができました。

投稿: すがやみつる | 2005/10/07 13:47

強さのインフレ、でダメになったのが、BASTARD!!だと思う。
13巻くらいまでは名作だったのに。

投稿: k | 2005/10/07 23:07

すがやみつる先生

ご丁寧にありがとうございました。
アニメとの関連があったんですね。
『ゲームセンターあらし』で炎のコマに挑み、
『こんにちはマイコン』を読んでPC6001を
買いました。あの頃からビル・ゲイツの才能に
注目していた先生の眼力にも驚きです。
まさかこのような形で先生にお答えいただけるとは望外の幸せです。
今後のお仕事にも陰ながら応援させていただきます。

投稿: | 2005/10/07 23:16

すいません。興奮して、HNを書き忘れました。

投稿: 坊や哲 | 2005/10/07 23:16

ひょっとして、あんまり関係ないかもしれないけど、

「私はオチやストーリーなんか必要ないと思ってる」(山田花子自殺直前日記より)

という言葉が、頭にずーっとあって、気になってます。
(この文の前後を読むと、もう少し意味が狭くなるのですが)

投稿: hamachi | 2005/10/08 21:28

はじめまして。
手塚治虫の「ぼくはマンガ家」にあるアニメ版アトムの話、
毎週放送の激務の中でアニメが手塚治虫の手を離れ。
対決の様相が強くなりアトムはつまらなくなった
のくだりがこの話の流れの中だとまた違った味わいになるなあと感じております。

あとストーリーについてですが手塚治虫自身は「マンガの描き方」の中で
最初から順番に話を考えてできた結末から
もう一度逆にストーリーを作り直す方法を紹介しています。
「アドルフに告ぐ」といった後期の長編作品もその方法なのかは疑問ですが
ストーリーを考える上で見逃せない発言かと思います。


>すがや先生
すがや先生のマンガで覚えたベーシックの基礎はいまだに忘れていません。
これからの活躍も陰ながら応援しております。

投稿: DEF | 2005/10/09 02:56

たけくま先生、はじめまして。
この度、思うところありまして自分の「機動戦士ガンダムSEEDDESTINY」について考えるブログの記事に、先生のこの記事の内容を使わせて頂きました。
場違いなトラックバックがあるのはその為です。

どうも有り難うございました。

投稿: shunichiro0083 | 2005/10/11 00:24

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» 「種運」のストーリー構成にかんする一考察のこと [shunichiro0083のアイの種運日記-感想と推測...]
・以前、「種」や「種運」のドラマの構成に関して「群像劇である」と評したことがある(こちらを参照のこと)。  しかし、今にして思えばこの「群像劇」というスタイルは三人の主人公を置く「種運」にのみ顕著なもので、「種」はむしろ「串団子形式」や「しめ縄形式」と呼ばれるものなのではないかと思い始めています。  ちなみにこの「串団子形式」というのは戦いの連続でスイトーリーを進めるというやり方であり、これに複雑なサブ・プロットを絡めたものが「しめ縄形式」と呼ばれるものであります。  では何故、「種」と「種運... [続きを読む]

受信: 2005/10/11 00:18

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