【篦棒な人々 4】「ダダカン」糸井貫二・抜粋
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いよいよ本日から『篦棒な人々』の発売であります。早い本屋さんなら4日には並んでいたと思います。俺の本はネット書店で売れることを特に期待しとりますので「立ち読み」代わりに掲載していたこの連載も、ついに最後となりました。今回は裸体行動芸術家・ダダカンこと糸井貫二師についてであります。
この章だけは他とは趣が違い、複数の人間に取材をしたルポルタージュ形式をとっております。なにしろマスコミ的にはまったく無名の人物で、電話も引いていない世捨て人的人物ですから、直接取材することは半ば諦めておりました。そこで、60~70年代のダダカン師を知る何人かの芸術家に取材をして、ルポを構成しようとしたものです。
最終的に会うことができたのですが、俺にとっては「会う過程」そのものがひとつのドラマでありました。今回はダダカン師インタビューではなく、事前調査でお会いした周辺人物のインタビューを中心に抜粋したいと思います。
●糸井貫二・プロフィール
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●圧倒的な存在
その人物の正体をまるで知らないのに、なぜかピンと来る名前というものがある。おれの場合、まず宮武外骨がそうだった。高校時代にその名を知って、それだけでピンと来た。どうしたわけか、自分にとってかけがえのない人物のような気がしたのである。ダダカンという名前にも同様に“来る”ものがあったが、“来る”が“来た!”になるまでには、外骨と違って、ゆうに二〇年の歳月が必要であった。 おれがダダカンなる名前を知ったのは万博の翌年、一九七一年のことである。情報源は『少年サンデー』だった。「へんな芸術」というグラビア特集が掲載され、ここに当時活躍していたさまざまな前衛芸術家のひとりとして、ダダカンが紹介されていたのだ。
「このダダ・カンと呼ばれる男、人と触れあうには、ハダカが本当だ。と、いつもスッ裸で狂気の行為を続ける裸体行動芸術家の教祖的人物。万博太陽の塔の下をハダカで走ってつかまったり、精神病院に収容されたりしたのでーす」(少年サンデー1971年3月21日号)
というキャプションもインパクトがあったが、掲載された写真にも衝撃を受けた。カッコイイのである。左ページの写真がそれだ。とくと堪能していただきたい。[上写真・羽永光利]
(中略)
●猥褻か神聖か
八五年に刊行された赤瀬川原平の『いまやアクションあるのみ!』(「反芸術アンパン」と改題してちくま文庫所収)にも、ダダカンこと糸井貫二の名前が出てくる。同書は今や伝説の美術展と化した読売アンデパンダン展の自滅に至る歴史とそこに集ったハプニング芸術家……別名“思想的変質者”の群像を描いた名著だ。
ハプニング芸術と言えば、一般には醜悪・危険・難解と三拍子揃って語られる印象があるが、そうした印象を形作ったのは読売アンパンの“功績”と言えるだろう。そうしたわけの分からない芸術家たちの中でも、とりわけダダカンは別格扱いだったようだ。同書で赤瀬川はこう書いている。
〈いつも見るのは、糸井貫二の作品である。どこかの村外れの廃屋から外してきたような薄汚れた板で、祠のような小屋のようなものがしつらえてある。中をのぞくと薄暗い中に週刊誌からち切ったような、粗末な印刷のカラーのヌード写真。ふっと空気に触れて皮膚がただれるような、衛生博覧会的な雰囲気。(中略)はじめは名前もわからなかった。それが猥褻なのか神聖なのか、芸術であるのかどうかもわからず、読売アンデパンダンの一つの代表的な印象となっている。〉
●宮城輝夫氏(画家)の談話
ダダカンさんは、パフォーマンスやハプニングに関しては、日本での草分け的存在ですね。そういう才能を彼は自然に持ってるんです。心の内から沸き起こってきて、誰の真似をするわけでもない。
彼は前衛的な作品を作る若い人が大好きでね。誰かの個展に顔を出して、気に入った絵がないと、何も言わずにスーッと会場を出ていっちゃう。気に入ると、その場で「儀式」をやるんです。
突如始まるんですよ、儀式が。
彼は背広もズボンも靴も、全部黒づくめでね。ホワイトシャツを着て、ジェントルマンの恰好をしてくる。持っている鞄を開けて、紫の風呂敷をとりだして、サッと会場の床に敷くんです。
それで上着をパッと脱ぐんだけど、そしたら前だけがシャツで、背中の側は裸なの(笑)。ズボンも靴も脱ぐ。フンドシもとっちゃう。それでペニスの亀頭の部分に赤いリボンが結んであったりするんです。だから会場にいる普通のお客さんは目を伏せてしまうんですよ(笑)。
それから鞄から卵を三つ出して並べたりする。こんな儀式を何回か見ました。七〇年ぐらいかな。万博の直前ぐらい。
(中略)
会場は仙台の三越デパートでした。三越の企画室に僕の友人がいて、話に乗ってくれたんです。で、僕は「これをやるとたぶん支店長が蒼くなるから、知らん顔してよ」って釘を刺したの。それでね、ダダカンが会場で素っ裸になって、赤いフンドシひとつになって(笑)。
ダダカンに心酔してた東北大の学生二人も裸になりましてね。学生のひとりがダダカンの尻に縄を巻いて、他の裸の学生と数珠繋ぎになって、そのまま四つんばいになって会場を飛び出した。
初日は雨上がりだったんでけど、道端の水たまりをすすったりしてね。三人でかなりの距離を這って歩いた。それで近くのパン屋さんに入って「仙台アンパン、バンザ~イ!」って叫んだらしいんです。そこの親父が目をまん丸にして、でもパンをくれたとかなんとか(笑)。
(中略)
彼は自作の解説めいたことは一切やらないんです。作品なり行為なりをゴロっと差し出して、それで終わり。
僕が思うに、彼が住んでいる世界はウソのない世界なんですよ。普通の倫理感なんていうのは、ダダカンにとってはウソの固まりなんでしょう。だから彼自身にしてみると、どこまでも真っ正直にウソをつかずに生きるかというのが……生き方なんですよね。[談・故人]
●水上旬氏(芸術家)の談話
←「美術手帖」1970年12月号「行為する芸術家たち」写真・羽永光利
ダダカンさんから焼けた五万円を送られたことがあります。封筒の中にお祝い袋があって、その中に半分焼けた一万円札が五枚入っていました。それも、明らかに意図的に焼いたお札なんです。
独り身とはいえ、僕よりも生活が厳しいはずのダダカンさんが、どうしてそんな行為をなさったのか。類推して行くと、こういうことらしいんです。
親戚の結婚式があるというので、大英断でその五万円をピン札で準備されて、お祝いに持って行こうと思っていたと。ところがダダカンさんはついに式に呼ばれなかった。それで、「これは誰に贈ってもいいんだな、よし、水上ならこの気持ちは分かるだろう」ということだったんですね。どこかに転送しろとかそんな指示は一切無しです。それだけさっとこっちに。
ダダカンさんという名前の人間じゃないんだと、俺は一人の「人」なんだってね。そこで力づけられるっていいますか。彼の表現は、美術界だけに限らんです。人類に向けてるんですよ。
七一年の八月に一度だけ、ダダカンさんの自宅にお邪魔したことあります。覚悟していたんですよ。もし素っ裸で出てこられたら、私も脱ごうと。それがあの方に対する礼儀だと思ったんで。
そうしたら裸ではなかった。フンドシでもなくて、ステテコとランニングシャツで。一人住いでした。
応接間に真っ赤なハリガタがあって、それをちっちゃな西洋人形がダッコしているんです。その背後に本棚があって、タイトルは忘れましたが、哲学書でしたかね。もっとも、あるのは箱だけで、中に何もないんですけど。
(中略)
ダダカンさんはできるかぎり身を捨てていくようなやり方で、稼ぐとかそういったことに捕らわれる時間はないんですね。経済問題、資本主義の問題にかかわりたくないといったふうな。
メールアートというのは、結局はDMなんですけど、ただし営利関係が一切ない。そこが大きな違いです。あの方はどうもそこでヘタを打っていらっしゃらないと私には思えるんです。どっか勝手に利用してとか、そういうことをされていないように私には見えます。[談]
(中略)
●豊島重之氏(舞台演出家)の談話
石川舜という画家がいまして、彼が若手中心の「仙台野外展」を開催するというので、市内のあちこちに看板を立てたわけですよ。六七年の終わり頃のことです。当時、私は医学生で、美術はド素人なわけですけれども、そういうのでも加われそうな匂いがあって、参加したんです。
会場の仙台市西公園で、私は穴を掘るイベントをやりました。私は美術家ではない。技術もない。それで野外展に関わるとしたら何ができるだろうか。これはもう、二四時間穴を掘るしかあるまいと言って、見物人を集めて、ひたすら穴を掘ったわけです。
まさにこの時ですね、糸井貫二が私の前に姿を現わしたのは。
最初は気がつかなかった。私が穴を掘っていると、ギャラリーがざわめくので、何だと思って見ると、向こうの森の陰に外国の神父みたいな黒のいでたちの男が立っているんです。そのままヒュッと前転するとスッ裸になっていて、チラッとこうペニスとか陰毛が見える。で、スタスタスタとどこかへいなくなっちゃう。
その場に行ってみると、みすぼらしい森永ドライミルクのカンが置いてあった。缶を開けると、針金で上を向くようにペニスが安置されていました。あたりを見回すと、あちこちの立ち木に「殺すな」と書かれた紙が貼りつけてある。
糸井貫二の出現は私にとって衝撃でした。我々に接触してきてスッと立ち去る、立ち去り方というのが、えもいわれぬものがあったんです。
(中略)
彼のハプニングには一貫したものがありましてね。いつも同じところをグルグルまわっていました。「発展」とかそうしたものはなかったですね。ふと考えてふとやる。ふとした行為、それ以上でも以下でもない。陰毛やペニスを出すことを安易だと言われれば、ああそうですかとニコニコしている。そこには「美術家の意志」ではないものがあるんですよ。
老若男女目をそむけるようなことは、これくらい単純にできなきゃウソだということ。それをやり続けるというのはやはり大変な「眼力」があるんですよ。極めてラジカルに極めて幼稚であるということです。だから芸術的な意志からは、煙たい存在。
しかしダダカンにも、やはりある種の意志があるわけです。それがもう、実に恐るべきものだったわけです。彼の中にある強い、超意志というかね、そういったものに彼が至りついたと。世間では認められないような、しかし彼の中では強固としてある信仰のようなもの。それはまったく強固なものだと思いますね。[談]
(中略)
●そこにダダカンが…
仙台市の外れ、近くに川の流れる静かな地域に、ダダカン師の自宅はあった。
古いが、しっかりとした作りの平屋である。事前の調査から、これが師の持ち家であることはわかっていた。ここいら一帯は、もともと師の父親が所有していた土地だという。糸井家は、それなりの資産家だったのだ。
資産家の次男坊が「芸術」に傾倒して生活を投げ打ち世捨て人になっていく……これは歴史の中で幾度も繰り返されてきた光景かもしれない。おれはふと、鴨長明の『方丈記』の世界を思い浮べた。
ノックしようとして、躊躇した。これまでずいぶんいろんな人にインタビューしているが、この時ほど緊張したことはない。川内康範も緊張したけど、今回はまた別種の緊張だった。まさかとは思うが、裸で出てこられたらどうしよう(真冬にそれはないだろうが)。
ノックの後、間髪をいれずに「ハーイ」という返事。意外に若々しい、甲高い声である。ドアを開けたら、白髪まじりの長髪にバンダナを巻いた老人が立っていた。
(後略)
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