コミックマヴォVol.5

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2008/02/19

●「ぼくら語り」の夜明け・前編

Dscn0217←まんがコミュニケーション1971年6月創刊第二号

本来なら今回は『「まんがエリート」と「おたく」の間に』の続きで、1975年の第一回コミックマーケットの開催と同じ年に、パロディサブカル誌「ビックリハウス」が創刊されて、70年代サブカル状況が整備されてきた話を書こうと思っていました。ところが昨日本棚を整理していたら、大昔に入手していた「まんがコミュニケーション」(略称「まんコミ」)71年6月号というミニコミがひょっこり出てきました。今となってはかなり珍しいシロモノです。71年に実質休刊した「COM」と、75年に始まったコミケとをつなぐミッシング・リンクのような雑誌なんですよ。読み返したら、団塊直下=プレおたく世代の気分がそのまま真空パックされたような内容でしたので、予定を変更して紹介したいと思います。

「まんコミ」については、2005年に発行された『コミックマーケット30'sファイル』(有限会社コミケット)という本の「コミケ前史」について書かれた箇所に、名前だけが出てきます。同書冒頭では、60年代末の「COM」が、いかにマンガファンの心のよりどころとして機能した重要な雑誌であったかについて触れた後、次の文章が続きます。

Komiket30s1←コミックマーケット30’sファイル―1975‐2005

《しかし、70年に実質的に『COM』は休刊、71年に再刊するが、虫プロ商事の倒産とともに完全に消えていった。拠点を失ったマンガファンたちは、『COM』以後のマンガ状況をどう生きるか、様々な道を探っていくことになる。コミュニティの再構築を目指す“マンガコミュニケーション”(原文ママ)、大阪という地でミニコミ的マンガ誌を刊行する「あっぷるこあ」、ちょっと遅れるが東京の同様の自前のマンガ誌を作っていこうとする『漫波』『不思議な仲間たち』。そして、SF大会にならったファンイベント「日本漫画大会」、それに続く形での「マンガフェスティバル」、などなど。戦後マンガ世代による、運動体的マンガ活動は72年から75年にかけて、様々な形で起こり、活発化していった。》(コミックマーケット30'sファイル 太字は筆者。本文中の「COM」実質休刊は71年。73年に再刊の間違いと思われる)

ここに「戦後マンガ世代による、運動体的マンガ活動」とあるのがいかにも時代を感じさせますが、70年代前半のマンガ同人誌・マンガ系イベントの雰囲気を伝える的確な表現であろうと思われます。当時はまだ若者文化の中心は1945年-50年生まれの団塊世代が握っており、やたらと「運動組織」を立ち上げて「政治的フォーマット」を構築したうえでないと何ひとつ始まらない時代だったのです。それは政治的には「ノンポリ」だったはずのまんがエリート(50年代生まれ。団塊直下=プレおたく)たちも同様で、これはもう「時代の枠組み」だったとしかいいようがありません。

この中にある「日本漫画大会」とは、たぶんマンガファンによる大規模イベントとしては最古に属するものですが、あるマンガファンの女性が本部から大会への参加を拒否されるという事件があり、これをマンガ批評誌「迷宮」同人(亜庭じゅん・原田央男・米澤嘉博氏ら)が問題視して、「漫画大会」に代わるファンイベントとしてコミックマーケットを立ち上げたという経緯があります。まんがエリートのちょっとした「内ゲバ」からコミケは始まったのですね。

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%BC%AB%E7%94%BB%E5%A4%A7%E4%BC%9A&oldid=17130330
↑「日本漫画大会」Wikipedia。記述が不十分で、一番知りたかったいつ始まっていつ終わったかが書かれてない。おそらく1972年頃に始まり75年まで続いていたはず)

さて71年からたぶん1年間続いたのが「まんがコミュニケーション」で、編集長は児童文化研究家の斉藤次郎。彼は団塊世代で劇画家真崎・守『共犯幻想』の原作者でした。その真崎がマンガ評論家・峠あかね名義で「COM」の「ぐら・こん」で投稿新人の審査員をしていたとき、斉藤も同誌でマンガ評論を発表していました。彼はその後「まんコミ」編集長を経て「だっくす」(「ぱふ」の前身)にも寄稿していたのを覚えています。

Dscn0219

←まんがコミュニケーション1971年6月創刊第二号

「まんコミ」はいくつかの書店で直置き販売していたようですが、基本的には手渡しで販売される少部数のミニコミ誌でした。まだコミケがなかったので、定期的に読者集会を開いて、そこで売っていたようです。造りは立派で、タブロイド判という「夕刊フジ」サイズの大判、上質紙にオフセット印刷・本文写植打ち。渋谷に編集部がありました。

俺はこれを80年代末に三冊ほど入手した記憶があります。ところが度重なる引っ越しで今一冊しか見つからない。捨てるはずはないので、どこかにしまってあるはずなんですが。見つからない号に、橘川幸夫氏や、関西でマンガ批評のミニコミを出していた村上知彦氏の記事が載っていたことを覚えています。橘川氏は72年に渋谷陽一が立ち上げたロック雑誌「ロッキング・オン」の創刊メンバーであり、80年には読者投稿誌「ポンプ」の編集長になった人。「ポンプ」は高校時代の岡崎京子がイラストデビューした雑誌としても知られています。

村上さんはプレおたく世代で現役のマンガ評論家。79年に『黄昏通信』という、のちに伊藤剛くんが「ぼくら語り」マンガ批評と名付けることになるマンガ論の代表的な本を出しています。70年代末からは団塊世代の橋本治や呉智英、その数歳下でプレおたく世代の高取英・米澤嘉博・村上知彦がマンガ評論・マンガ編集の世界で「プロ」として大挙して活躍を始めました。

「まんコミ」はマンガ評論誌で、手元にある71年6月号(創刊2号・宮谷一彦表紙)の内容は次の通り。

●特集・ギャグ 「赤塚不二夫の世界」(斉藤次郎)
「ギャグ・必死の笑い」(秋竜山)
「笑いの毒薬~ギャグ・パロディまんが以前」(高井久夫)他2編
●創作マンガ「カラクリ音頭」
(ムギ面子)
●アメリカのコミックファンダム(小野耕世)
●「まんが状況71・5-6」(編集部によるマンガ時評)
●まんが村から挨拶
(村上知彦の寄稿)
●コミュニケーション405(「まんコミ」は渋谷グリーンタウンというマンションの405号室を編集室にしていた。このページでは「まんコミ」の編集理念と編集現場の風景を解説している。最初期の「だっくす=ぱふ」にもこういうページがあった)
●宮谷一彦論 俗悪とその誇り
●東京まんコミ集会・速報
(斉藤次郎や真崎・守を中心にした読者集会のレポート。完全に「ぐらこん」からの流れ)
●伝言板・編集後記

この中で注目したいのは70年代初頭における「まんがファン」のムードを知る資料として貴重と思える、次のような文章です。たとえば「コミュニケーション405」の次の部分。

編集・販売・組織する
「まんコミ」は個別的に編集・販売・組織活動は分化せずに、それらが有機的な結合によって始めて、表現されるのである。ここに依拠するのは「まんコミ」の試行に触発された編集行為は、編集室と〈読者〉との緊張した関係、つまりコミュニケーションを持ち続けることに「まんコミ」と読者の関係を構想している。それは相互選択に固執することである。コミュニケイト販売、つまり手渡し販売する理由はここにある。》

この文章は無記名ですが、編集方針を表明する内容ですので、編集長の斉藤次郎が書いた可能性が高いです。団塊世代特有の晦渋で政治的な言い回しも、その感を強くします。でもよく読むと「この雑誌は読者のみなさんとの触れあいを大切にしたいので、手渡しで販売しま~す」という意味のことしか言っていません。

しかし、この「手渡し販売」にこだわる態度は、のちのコミケットまでそのまま繋がっていると思われます。雑誌を、同じ趣味を共有する者同士のコミュニケーションを深めるツールにしようという姿勢がここにありました。
《後編につづく》

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文学の秋っていうけど 文学は冬にするもんじゃない?? だって寒いし・・・ 家か... [続きを読む]

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