●「ぼくら語り」の夜明け・後編
「まんコミ」71年6月号に掲載された、斉藤次郎編集長の手によると思われる「コミュニケーション405」には、こういう文章もあります。
《まんがをまんがで語る
“まんがブームの終り”の寸劇が街で評判をとっている。一時の頂点、「少年マガジン」誌百五十万部突破は、すでによきムカシバナシとして出版界の酒宴の酒の肴になりきろうとしている。(中略)
おびただしい数の読者がまんが雑誌から、無言に別離した。その別離の距離が狂おしいまんが雑誌のたそがれに向かって告知している。その距離のなかに、表現欲求の延長上にまんがを表現メディアとする層が定着した、まんがを表現の武器として、しかも、まんがの内側から、まんがでまんがを語り、絵ときするものと「まんコミ」は、グルになり、その鼓動を伝え合う。そのとき“まんがブームの終り”がある》
これも晦渋な文章ですね。少し説明すると、文中の「少年マガジン」が売れなくなったというのは、1970年に150万部を記録した「マガジン」が翌71年になって、とつぜん部数が大幅に落ち込んだことを指しています。同時に「サンデー」の部数も激減しました。原因としては、「マガジン」「サンデー」は創刊時(59年)に小学校高学年だった団塊世代をターゲットにしていたため、70年には主要読者が大学生から社会人になり、人気連載だった『巨人の星』の終了と、『あしたのジョー』でライバル力石が死んで連載のテンションが一時的に失速、『天才バカボン』がいきなり「サンデー」に移籍する事件もあって、読者離れを起こしてしまったことにありました。
少年読者は新興勢力の「少年チャンピオン」「少年ジャンプ」に流れ、ハイティーン層は「マガジン」「サンデー」に見切りをつけて、「漫画アクション」「ヤングコミック」「ビッグコミック」などの新興青年誌に流れたということがあります。マガジン・サンデー両誌ともあわてて読者年齢を下げようと試みましたが、読者は戻らず、以降80年代にラブコメ路線で盛り返すまで両誌の長期低迷が続くのです。しかしこれはマンガが多様化しはじめただけで、必ずしも総体としての読者数は減ってはいなかったと思うのですが、「まんコミ」編集部はそうは見ていなかったということでしょう。
「マガジン」の部数減少以上にポイントだと感じるのは、この号が出された71年6月は、虫プロの経営が悪化しはじめて「COM」休刊の気配が忍び寄っていた時期にあたっているということです。
←「COM」1971年12月“休刊号”。編集後記に休刊の記述はないが、編集長以下全員が創刊からの5年間を振り返るなど、まるで告別式のような異様な内容になっている。表紙には「まんがエリート」という言葉はもうない。
最初に引用した『コミケット30'sファイル』に「70年に『COM』は実質休刊」とあるのは71年の間違いです。実際の「COM」は71年12月号まで続いて、そこで休刊し、73年に一回だけ復刊されましたが、直後に虫プロ商事が倒産して永遠に廃刊となりました。
←73年8月号。いきなり復刊した「COM」だったが、直後に発行元が倒産。これが最後の号になった。
少なくとも70年代初頭のこの時期、「自分たちの居場所がなくなってしまう!」という焦りに似た気分がまんがエリートたちの中に強く存在し、その思いが「まんコミ」創刊や、「漫画大会」「コミックマーケット」などの「70年代マンガ・カウンターカルチャー運動」を生み出す土壌になったのだと思われます。
ところで上に引用した文では、もうひとつ重要なことが語られています。それは「まんがの内側から、まんがでまんがを語る」という理念がこの時点でハッキリ書かれてあることです。
※追記:夏目さんから指摘を受けましたが、それ以前から「COM」の批評コラムで「まんがをまんがの内側から語る」という理念はあったようです。真崎・守や石子順造あたりが書いていてもおかしくないので、今度よく調べてみます。
http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2008/02/post-2e97.html
↑夏目房之介の「で?」
しかし真の意味で「内側からまんがを語る」ことが可能になったのは、この20年後のことでした。90年代前半に夏目房之介氏が『手塚治虫はどこにいる』(92年)等一連の著作を発表して、マンガの基本構成要素である「絵・言葉・コマ」の機能や意味を言語化することに成功して以降です。マンガ家としての実感を踏まえつつ書かれた夏目さんの論は画期的で、たいへんな説得力がありました。これは「マンガ表現論」と呼ばれ、近年の伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』まで続く現代マンガ論の主要な柱となっています。
「マンガ表現論」は始まってまだ15年なんですが、理念としては少なくとも38年前、71年の段階ではすでにあったわけです。でも70年代のマンガ論はテーマ論とストーリー論、ファンの印象批評、社会学者や教育者の上から目線のマンガ批評が主流で、「内側からまんがを語る」とは具体的にはどういうことなのか、言ってる本人もよくわかってなかったのではないでしょうか。
ちなみに夏目さんは1950年生まれで、村上さん(51年生まれ)や米澤さん(53年生まれ)より少し年上ですが、ほぼ同世代。村上さん米澤さんは編集者やコミケ主催者として「送り手の側」に回り、70年代末に評論家としてデビューしました。一方の夏目さんは長らくマンガ家として実作に携わっていましたが、この世代に共通していることは、いずれも「内側からマンガを語りたい」という欲求があったことです。
これは、それ以前のマンガ論の多くが大人の目線から「子供に与えるもの」としてマンガをとらえていたので、マンガで育ったマンガ世代の実感に合わなくなっていたことがあります。「大人の目線」によるマンガ論ではない、マンガ世代によるマンガ世代のためのマンガ論(語り)が求められるようになっていたのです。
←「ぼくら語り批評」の古典、村上知彦の初評論集『黄昏通信』(1979年、ブロンズ社)
「マンガ表現論」が始まるまでの間、70年代後半から80年代のマンガ語りを席捲していたのが、村上知彦さんに代表される「ぼくら語りマンガ批評」ということになります。「表現論」の手法をとらずに「まんがの内側からまんがを語ろう」とすれば、それはマンガ世代(=ぼくら・ぼくたち)の「実感」に基づいた印象批評を書くしかないわけで、これはこれで70年代という時代にあっては世に出る必然性があったというべきでしょう。「まんコミ」には村上さんのちょっと面白い文章が載っているので、再び71年6月号から引用してみます。
《○〈拒否〉を〈加担〉する
月光仮面社西宮本社は、狂気の日本に蠢くコミュニケーションへの胎動を〈集中的〉に〈組織〉しようとする貴紙(竹熊註:「まんコミ」のこと)の運動に対し、不安と期待の入り交った心境にならざるを得ない。それが我が社が基本的には、〈表現〉によるコミューンの形成を目論みつつも、〈集中〉すること、〈組織〉することに対する拒絶反応を無意識的に引き起こしてしまうからだろう。連帯を求めつつも、それが〈ぐらこん〉的、〈八派連合〉的中央集権ヒエラルキーに化する事を恐れる余り、孤立無援を選ぶ必要はさらさらないのだと自らにいい聞かせつつ、ぼく(たち)は〈拒否〉を〈加担〉する。
〈全国全共闘〉の内実が〈八派共闘〉にすぎないように、〈まんコミ〉編集室となることを断固阻止すべく、〈購読者〉ではなく〈表現者〉として、望まれてではなく自ら望んで、ぼく(たち)は〈拒否〉を〈加担〉するのだ。
ブルジョア・マスメディア粉砕!
万国の月光仮面団結せよ!
月光仮面社 西宮本社 兵庫県西宮市高松町●-●-● 村上知彦 気付
追伸 関西ブロックコミュニケーションに参加希望。開催場所 心当たりなし(曾根崎署占拠が望ましいが力量的に不可能?)》
……月光仮面社というのは当時村上さんがやっていた個人ミニコミの発行元名なんですが、最初この文章を読みはじめたとき、はて? 村上さんって、ここまでゴリゴリの全共闘だったっけ? と不思議に思いました。俺ご本人に何度もお会いしてるんですが、いくら昔とはいえ、ここまで戦闘的な文章を書く人には見えないからです。その疑問は「拝復」と題された続きの文章で氷解しました。
《○拝復
「まんコミ」創刊号、送っていただき、有難ふ。
(それにしても“まんコミ”は、何となく、ヒワイな名称なんだヨ)
くり返すけど、ボクはほとんど無一文ナノダ。一円玉、五円玉、十円玉が各々いくつか残っている他は、めぼしい物といえば、コーラの空きビンが七本きりなのだよ。(中略)
小生、マンガ家では、淀川さんぽ、つりた・くにこが大好きなのデス。
宮谷一彦は、自称「テロリズムへの傾斜の強い急進的アナキスト」だそうで、その辺まではボクと意見の一致が見られるのですが、ルノー・ベルレーに、田村亮みたいな鋭さを加えたような、そのフーボーは、あまりにもカッコ良すぎて、ぼくァ、もう、ツイテイケナイヮ……。(中略)
ボクも、ヒマとカネを持てあました際には、「まんコミ」の定期購読を申し込むつもりですョ。
まずはゴヘンジまで……ホナサイナラ》
後半を読んでようやく、ああ前半の堅い晦渋な文体は、全共闘世代の編集長(斉藤次郎)のことをおちょくったパロディなんだな、ということがわかるんですが、ガラリ変わって「拝復」以降のハラホロな情けな文体は、プレおたく世代の70年代気分のいい見本になっております。というか村上さんはたんに「カネがないので定期購読できません」と言ってるだけなので、こういうものを読者欄ではなくメインページに載せてしまうというのは、いかにミニコミとはいえ、アマチュアリズム全開でありましょう。実際「まんコミ」は、雑誌としては1年もたなかったはずです。
※追記:この文章をアップしたのは20日ですが、21日になって、コメント掲示板に村上(GYA)氏の書き込みがありました。それによると、〈拝復〉以降の文章は別人の筆である可能性が高いとのことです。「まんコミ」に掲載された文章を読む限りでは、村上さん以外の署名がなく、それはまったくわかりませんでした。ただ文体が全然違うので、別人だったとしてもおかしくはありません。また村上さんは、このアジ形式の文章を「半分パロディ、半分マジ」で、斉藤編集長への共感と反発が入り交じった韜晦で書いたと回想されております。俺が書いた文章は、パロディの意図があったという点では当たっていましたが、実際はもっと複雑な気持ちで書かれたものだったようです。村上さんには、貴重な証言をくださったことを感謝いたします。
この村上さんの文章からは、プレおたく世代のノンポリ具合がよくわかります。これは政治に対して無知なのではなく、なんでも政治に結びつけてしまう団塊世代の態度をおちょくることで、意図的に「反政治・脱政治」を指向しているとも読めます。このまったりしたノンポリ気分は、後に続く「オタク第一世代」の本格的な「非政治的態度」を準備したのではないかとも考えられるのです。
政治に対する各世代の違いをいえば、団塊世代は「政治を語り」、プレおたく世代は「政治を茶化し」、オタク第一世代は「政治をスルー」ということになるでしょう。
ちなみに俺が高校に入った76年頃は、およそ「政治的な発言」が一番ダサかった時代でした。まったく政治色のないユーミンはその象徴みたいに俺には感じられたわけです。その非政治というか無政治な気分は、80年代を通じた俺の世代の特徴になるんですが、それは90年代に入ってから宮崎勤事件や、オウム事件で大いなるしっぺ返しを食らうことになります。
話を整理しますが、「COM」が断末魔に陥った時期に「まんがコミュニケーション」が創刊され「漫画大会」が開かれ、「ぼくたち(マンガ世代)の表現とコミュニケーションの場」を模索する活動が71年頃から始まった。それは政治色は薄かったですが全共闘的な感覚はどこかに残っていました。それはマンガやロックといった「サブカルチャー」を、「若者世代の表現」として「大人社会」の価値観にアンチテーゼとしてぶつける姿勢です。「大人社会の主流文化」に「サブカルチャー(非主流の若者文化)」で対抗することを「カウンターカルチャー(対抗文化)」といいます。
以前、ありし日の米澤嘉博さんとお会いしたとき、俺が「コミケってカウンターカルチャーですよね」と振ってみたら、米澤さんは即座に「そうだよ」と答えたことを思い出します。コミケは、間違いなく「アンチ商業主義」という意味での典型的な70年代カウンターカルチャーでした。
次はいよいよ「おたく第一世代」が中学生から高校生だった、1975年の状況を書いてみたいと思います。
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