「まんがエリート」と「おたく」の間に(2)
前回は、1967年1月(発売は66年12月)に「COM」が創刊され、「ガロ」とともに「いくつになってもマンガを卒業しない」当時のハイティーン(現在の50~60代)を主要読者として開拓したと書きました。なかんずく「COM」は、新人発掘に力を注いただけではなく、マニアへの連帯をよびかけて読者組織を作り、これが75年からのコミックマーケットへと発展していったことはほぼ間違いないところです。今あるマンガ状況、マニア状況は、「COM」を抜きにしては語ることができないといえます。
前回も書きましたが、「COM」は創刊号から68年いっぱいくらいまで「まんがエリートのためのまんが専門誌」というキャッチフレーズを表紙に掲げていました。60年代は日本中が「政治の季節」であって「若者の反抗の季節」であり、左翼大学生がキャンパスの中心にいて、バリケードを作ったりデモ行進をやって反権力のメッセージをアピールしていました。現在では考えにくいことですが、大学生が交番を焼き討ちしたり、キャンパス内でゲバ棒や刃物を振りかざして対立セクトを半殺しの目に遭わせたりすることが「日常風景」であったわけです。団塊世代のテリー伊藤には学生運動の過去がありますが、彼が斜視になったのはデモ中に投石を顔面に受けたからだと本人が語っていたことがあります(最近になって手術を受けて治しましたが)。
もちろん全部が過激派学生であったわけではありません。正確な統計があるのかどうかわからないんですが、現実には多くの若者は「ノンポリ」(nonpoliticalの略。政治的無関心層)であったと思われます。ただ当時はマスコミ人や知識人の主流が左翼でしたから、ノンポリはバカにされるので、「左翼のフリ」をするのが普通の若者の処世術だったのだと思われます。実際、年齢が下になるにつれてノンポリが増えていき、団塊世代の最末端に位置する50代後半くらいになると、前回も書いた「まんがエリート」や、フォーク・ロックにはまる層など、政治よりもサブカルチャーが価値の中心になる人が増えてきたわけです。
70年代の前半は、今思い出しても暗い時代でした。ドルショック(ニクソンショック)が1971年、73年にオイルショックが起きていきなり世の中が不景気になりました。公害問題が一番叫ばれていた時代で、製造業はどこも公害対策に追われて業績を落とすなど、経済が非常に停滞した時代であります。俺は、今でも新聞の一面にでっかく「マグロのトロを食する場合は一週間に10切れまで。それ以上はPCB汚染が体内に蓄積して危ない」と書かれてあったのを思い出します。
小松左京の『日本沈没』と五島勉の『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになったのが73年ですが、今でも70年代前半の気分を象徴する二冊になっています。俺はちょうど小学校高学年から中学生でしたが、明日にでも世界が滅びるのではないかという不安に襲われました。
10年ほど前、編集者の赤田祐一君と話していて、彼がポツリと「90年代って70年代ですよね」と言ったことがあります。なるほど、バブル経済崩壊以降の90年代と、オイルショック以降の70年代にはともに「経済停滞の時代」という意味で似たところがあります。70年代のオカルト超能力ブームは、そのままオウム事件にまで繋がってますので、「90年代は70年代の再来」という言い方には説得力がありました。
ついでに言えば、バブリーな80年代は、高度成長期の60年代と「時代の狂騒感」という点でちょっと似ています。しかし60年代は日本の製造業が大躍進した時代で、間違いなく「実業の時代」であったわけです。一方の80年代は、誰もがマネーゲームに明け暮れたという意味では「虚業の時代」でありました。躁状態ということでは似ているんですが、内実は根本的に違う。60年代には今日より明日はいい暮らしができるという、未来に対する夢と希望がありましたが、80年代は全員これはバブルだ、明日には弾けるぞと思いながら今日という日を刹那的に生きていたのです。とてもニヒリスティックな時代だったと思います。80年代はマンガなどもパロディに満ちあふれましたが、80年代そのものが60年代のパロディであったような気がします。パロディ以外で流行っていたマンガは『北斗の拳』と『AKIRA』と『風の谷のナウシカ』で、どれも文明崩壊後の未来世界を描いているという点で共通しています。
おっと、80年代の話は先走りすぎました。
ちなみにこの文章は「まんがエリートとおたくの間に」という題で書き始めましたが、じつは俺の中で構想が広がってしまって『私とハルマゲドン 第二部』の様相を呈しております。というか、俺が書く懐古的な文章はすべて『私とハルマゲドン』の続編だと言われるとそれまでなんですが。こうなったら乗りかかった船で、書けるところまで書いてみようと思っています。また、現在中断している連載『blog考』とも、繋がっている部分が実はあります。あの連載では「自分はなぜ物書きになり、今ブログを書いているのか」ということを書きたいと思っているんですけど、当然そこには物書きになる前の70年代メディア体験と、80年代になってからの話が入ってくる予定だからです。ここでは、なるべく「オタク第一世代の成立」に繋がる文脈で書くつもりです。
閑話休題。俺は74年に中学に入り、76年に高校入学、79年に卒業して一浪後、専門学校に入ったのが80年です。中学から高校の全部が俺にとっての70年代だったわけです。
70年代は、確かに停滞の時代ではありましたが、クレジットカードもそんなに普及していませんでしたし、国民がローンで借金漬けになるようなことはまだなかったと思います。つまり90年代以降に起きたようなヒドイ事は、まだそんなに起こってなかった。俺が子供だったから知らないだけかもしれませんが。
若者たちの革命幻想は夢破れ、でもやることがないのでヒッピーになって田舎でコミューン暮らしをしたり、そこまでいかない若者は四畳半でギターを弾いたりマンガを読んだりしていました。ああ、これでやっと最初の話に戻ることができました。
とにかくのんびり・まったりした時代だったという印象が強くあります。特に70年代中期は。国家に反抗するようなポーズはダサイとされ、かわりに非生産的なサブカルチャーにはまることがカッコイイとされました。「非生産」は70~80年代を語るうえで重要なキーワードだと思います。
ところで、どうして70年代が不景気にも関わらずみんなでのんびり・まったりできたのかというと、やはりそれ以前の10年の好景気のうちに貯め込んだ富が尋常な額ではなかったということなのだと思います。それはたぶん現在のヒキコモリやニートのバックボーンにまで繋がっていると俺は思う。ようするに30過ぎてもなおヒキコモリやニートができる程度には、日本はまだ豊かな社会だということなのでしょう。
今回は、本論に向かう助走みたいな感じで長文を書いてしまいました。この後の予定では、77年に突然起きたアニメブームと、「おたく」が立ち上がってくる話を書くつもりなのですが、その前に1975年がいかにサブカル的にもオタク的にも重要な年であったかという話、そして俺が「オタク第一世代」の中心的感性を占めていると考える「マイブーマー」の存在について書きたいと思います。
「マイブーム」というのは、みうらじゅんが90年代はじめに作った造語なんですが、この言葉くらい70~80年代のある種の人々の気分を表している言葉はないと思う。みうらじゅんという人は昔から「サブカル」とは思われていても「オタク」と呼ばれることはなかったと思うんですが、しかし彼がやっていることは一貫してオタク的行為だと俺は思うわけです。その彼がどうしてオタク史の文脈から外されてしまうのか、という点も含めて書いてみます。《つづく》
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