柴田錬三郎の芸術的「言い訳」
本日の夕方、ようやく原稿が終わりました。『サルまん』のほうは、おととい終わっていたんですけど、もうひとつ20枚ばかしの原稿が残ってしまったのです。ある単行本に掲載する文章なんですが、これから編集者の意見を聞いて修正作業に入る可能性もあります。
今回の『サルまん』は、俺の分担がいつもの倍くらいあったんですよ。今回は、ちょっとまた読者のみなさんのご意見を伺いたいと思ってますので、25日になったらここと公式ブログで発表したいと思います。いや、こちらが用意したブツ(複数)に対して、読者の人気投票をネットでやろうと思っているんですけどね。投票システムのCGIって結構あるでしょう。それ使ってブログでやろうかなと。それで今、フリーCGIでいいのがないか探しているところです。
それにしても今回ばかりは締め切りに苦しみました。いやまあ、いっつも苦しんでいるといえばそうなんですけど。締め切りに間に合いそうにないときには、原稿が書けない言い訳をこちらは考えるんですが、こういう言い訳はたぶん出版史の最初からあって、馬琴や北斎なんかもきっとやったんじゃないかと思われます。
締め切りで行き詰まったときに、俺が必ず思い出すのが柴田錬三郎の『うろつき夜太(やた)』という小説です。これは小説=柴田錬三郎、挿絵=横尾忠則の名コンビで、「週刊プレイボーイ」の1973年から74年春にかけて連載された時代小説なんですけど。
74年5月 (※コメント掲示板での石川誠一氏のご指摘によれば、74年6月にまず小説版が出て、75年に今回紹介した完全版が出たそうです) には集英社から横尾忠則の装丁で単行本(左写真)になりました。「週プレ」サイズの大判で全ページ4色の布装ハードカバーというものすごく贅沢な本で、横尾ブックデザインの最高傑作と言われております(俺が勝手に呼んでいる)。
連載中は俺、中学生だったので週プレを読んでなかったんですが、大人になってから古本屋で単行本を入手しました。買ったのは80年代末でしたが、古書価が1万円くらいしました。今は文庫になっているんですが、80年代にシバレンの小説版が、90年代に横尾の挿絵版が独立して別の版元から文庫化されたんですよ。(※ どちらも集英社文庫でした) あとで俺が書く紹介を見ればわかりますが、この小説は横尾の挿し絵とデザインを、オリジナルの週刊誌サイズでオールカラー復刻しなければほとんど無意味な作品なんですよ。
この小説にはシバレンの前書きがあるんです。そこに連載のいきさつが書いてある。それによれば、とにかくシバレンは長い作家生活に疲れてスランプに陥っていたと。それを週プレ編集者の島地勝彦氏(のちの週プレ編集長)が、当時先鋭的なデザインで若者のカルチャーヒーローになっていた横尾忠則に挿し絵とデザインをやらせて、週プレで時代小説を連載しないか、と持ちかけたわけです。
スランプに苦しんでいたシバレン先生、横尾忠則と組むことにスランプを打破するカギがあるかもしれないと感じて、この企画に乗ります。で、ここからがすごいんですが、横尾デザインの魅力を生かすべく、全ページカラー連載、しかも高輪プリンスホテルに部屋をふたつ編集部が借り切って、そこに二人を1年間カンヅメにして連載させるわけです。正直、ここまで贅沢にお金をかけた小説連載というのは空前絶後じゃないかと思います。
それで、この企画でシバレン先生がスランプから脱したかというと、もちろんそんなことはなくて、ある日とうとう、ある行から先の原稿が一文字も書けない、という絶体絶命の事態にシバレン先生は陥るわけです。
作品の中でシバレン先生が、締め切りが来て前半の第一章だけはなんとか書いたものの、あと一時間で編集者が取りにくるのにそこからまったく筆が進まない、仕方がないので後半を全部「言い訳」で埋めたというとんでもない回があるんですよ。もちろん横尾忠則のイラストつきでですよ。以下『うろつき夜太』第22回より引用。
《二 作者おことわり
読者諸君!
実は、まことに申し訳ないことながら、ここまで──第一章を書きおわったところで、私(作者)の頭脳は、完全にカラッポになってしまったのです。
二十余年間の作家生活で、こういう具合に、大きな壁にぶっつかり、脳裡が痴呆のごとくなって、どんなにのたうっても、全くなんのイマジネーションも生れてこないことは、これまで、無数にありました。
(中略)
こんどばかりは、ニッチもサッチもいかなくなり、ついに、こんなぶざまな弁解をしなくてはならなくなったのです。
この『うろつき夜太』は、私と横尾忠則氏と、二人が、本誌編集部によって、私の家のごく近くにある高輪プリンス・ホテルに、とじこめられて書きつづけているのです。
このホテルは、外国の観光客があふれ、結婚式が一日に五組も六組も行われて居ります。
それらの人々は、みな、はればれとした顔つきをして居ります。
(中略)
広いホテル内で、陰鬱な表情をしているのは、たった二人だけ──柴田錬三郎と横尾忠則だけです。
(中略)
「プレイボーイ」誌の編集者が、あと1時間もすれば、このホテルの私の部屋にやってきます。
締切りギリギリ、というよりも、締切が一日のびてしまって、私は、断崖のふちに立たされているあんばいなのです。
(中略)
この生地獄から、どう這い出せるか、目下、見当もつかない。
(中略)
読者諸君は、すらすらと読み流して、
「こんなものか」
と、思うでしょうが、作者たる者、正直のところ、かくも生地獄の中で、のたうち回っている次第です。
弱った!
どたん場で、ついに、死んだほうがましなような悲惨な気持で、弁解しているのです。
こういう弁解を書いた原稿を横尾忠則氏に渡すと、どんなさし絵が描かれるか、私には、見当もつかない。
二〇余年の作家生活で、はじめてのことだと、受け取っていただきたい。
うろつき夜太は、全くの自由人です。自由人だからこそ、筆者のほうが、参ってしまった。
困った!
かんべんしてくれ!
たすけてくれ!
どう絶叫して救いを乞おうと、週刊誌は、待ってはくれぬ。
これは、決して、読者諸君を、からかったり、ひっかけたりしている次第ではありません。
(中略)
あと1時間で、『プレイボーイ』誌の編集者が、原稿を受けとりに、やってくるが、私は、白紙を渡すわけには、いかない。
黙って、悠々として、さらさらと書き上げたふりをして、部屋へ書き残しておいて、私は、ロビィへ移り、ティ・ルームで、ブルーマウンテンでも飲むことにする。(後略)》
とまあ、こんな具合でこのあともえんえんとイイワケが続くのです。この部分はある意味この小説の白眉なのですが、こういう原稿をぬけぬけと渡すシバレン先生も、平然とシバレンの似顔絵を描いて渡す横尾忠則も、それを平然と(ではなかったかもしれないが)入稿して雑誌を出してしまう当時の週プレ編集部も、全員どうかしていた いい度胸していたといえるでしょう。
この後も連載中にシバレン先生はたびたびスランプに苦しむのですが、横尾忠則はスランプに苦しんで睡眠薬を飲むシバレンをモデルにイラストを描くなど、徹底したライブ感覚で連載は進められました。
小説そのものは、江戸時代の日本を舞台に暴れ回る風来坊「うろつき夜太」の痛快小説だったんですが、途中でジョン・レノンが出てきたり、だんだんわけがわからなくなってきて、最後はフランス革命に夜太が身を投じるところで終わりになります。小説としても、メチャクチャです。
←小説は毎回「つづく」で終わるのだがある回では横尾のイラストが未完の状態で載せてあり「イラストレーションもつづく」で終わっていた。
さて俺はこの作品に触れてから、相原コージ君と組んで『サルまん』をやることになるわけなんですが、コンビでよってたかって誌面を私物化し無茶苦茶やるところは、もしかすると『うろつき夜太』の影響があるのかもしれません。───まあそんなわけで、俺はスランプに苦しむたびに『うろつき夜太』を読んで自分を安心させるのです。
それはそうと、94年にある企画で成城の横尾先生の家に行ったことがあります。そのとき俺の『うろつき夜太』にサインしていただきました。これは家宝モノであります。
※───写真はすべてオリジナルの集英社版『うろつき夜太』より。
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