コミックマヴォVol.5

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2008/06/18

マンガとアニメーションの間に(2-3)

■京都精華大学特別講義テキスト

●マンガとアニメーションの間に(2-3)
 第二回「ウォルト・ディズニーをどうとらえるべきか」(3)

●講師・竹熊健太郎

●実写的演出

 リアリズムは演出にも及んでいる。もっとも顕著な例は作品の序盤、女王の命令で猟師が白雪姫を殺そうとする場面である。美しい風景の中で、姫が小鳥と会話している。その背後から迫る猟師。恐ろしい形相がアップになる。ついでナイフを握る手のアップ。その手がぶるぶると震えて、ナイフが落ちる。猟師の心の葛藤が観客に伝わる見事なモンタージュである。あまりにも純真無垢なヒロインを前にして、彼は殺意を失い、その足下にひざまずく。この演出は極めて実写的で、アニメでは冒険であったが、成功している。

 つづく「森の中の逃走」は作品全体でもっとも見事なシーンだ。ただひとり暗い森を逃げる白雪姫。彼女は恐怖でわれを失い、周囲のあらゆるものが怪物に見える。実際、それはただの木や草なのであり、よく見れば背景はそのように描かれている。しかし完全な孤独に陥った白雪姫にとっては、すべてが恐怖の対象なのである。

 ついに彼女は力つき、地面に突っ伏してしまう。すると奇跡が起こる。たちまち森は暖かい日差しにつつまれ、怪物の眼光に見えたものが、愛らしい小動物のそれであることがわかる。とたんに世界は「善なるもの」に転じ、彼女は喜びの歌を歌う。緊張から弛緩への変化が素晴らしい。

 この一連のシーンで表現されているものは、それまでの世界から別の世界への「転入の儀式」である。新しい環境に身を移すとき、人は誰しも不安にかられるものだ。こうした心理をこのシーンはこれ以上ないほど劇的に描く。それは白雪姫だけではなく、観客自身が「おとぎの国」にテレポートするための通過儀式なのである。

 ちなみにこのシークェンスは、ディズニーが'32年に発表した短編『妖婆の森』(Babes in The Woods)の導入部、少年少女が森に迷い込むシーンの演出と酷似している。だが完成度と迫力は雲泥の差だ。両者を見比べると、この数年間でスタッフがいかに研鑽を重ね、すさまじいまでの技術的進歩を遂げたかが理解できよう。

●魔術的リアリズム

 作品が難解になることをおそれたウォルトは、観客が混乱する要素を慎重に排除した。たとえばこの作品には、時間が逆行する回想シーンや、登場人物が心の中で空想するイメージ・シーンの類は一切使われていない。こうした作劇テクニックは、安易に使用すると作品の流れに停滞と混乱をもたらすことを彼は知っていたのである。

『白雪姫』はどこまでも「ファンタジックな現実」でなければならなかった。夢は、人が没入しているほどそれが夢とは気づかない。目覚めたとき、はじめてそれは夢なのであり、夢の中においては、なにが起ころうがその限りでは「現実」である。映画館の暗闇で、観客が【セルロイドに描かれた絵空事】を「現実」としてうけとることをウォルトは望んだ。彼が狂気にも似た情熱で「写実」にこだわった理由とは、おそらくこれである。

 この考え方は、スタンリー・キューブリックの言う「魔術的リアリズム」ときわめて近い。キューブリックは『2001年宇宙の旅』製作にあたり、徹底して現実的なドキュメンタリー風描写にこだわった。これは観客に「非現実を現実として認識させる」ための、ひとつの芸術的マインド・コントロールである。「絵空事」を細部までリアルに描くことで、観客は否応にもそのなかに没入させられるのだ。

 作品の中盤、白雪姫が椅子に座って「いつか王子様が」を歌う場面がある。こびとたちは姫の歌声にうっとりとして聴き入る。なんのてらいもない静かなシーンだが、当初この場面は、姫が心のなかで王子を夢想する華麗なイメージ・シーンになる予定だった。実際に描かれたストーリーボードを見ると、雲の上で姫と王子が出会い、擬人化された星の子供たちがふたりを祝福するという、ロマンティックな場面になっている。

 なぜ、ウォルトはこのアイデアをボツにしたのだろうか。おそらく、それがあまりにもファンタジックすぎたからだ。夢に夢を重ねることで「リアルな夢」の構図が壊れることをおそれたのであろう。

 ヒロインが美しかった過去を回想し、あるいは心の中でファンタジックなロマンスを空想することは、ふと我に帰ったとき、それは一種の「夢オチ」のように機能することになる。しかしウォルトが作る世界は、どこまでも「醒めない夢」でなければならない。『白雪姫』から慎重に空想や回想シーンを排除した理由は、そこにあるのではないかと私は考える。

●完璧に閉じた世界

 リアルなキャラクター、リアルな美術、リアルな演出で幕を開ける『白雪姫』だが、じつはまったくリアルでない部分がある。それはキャラの「内面」と、そこから導きだされるドラマそのものである。

 この作品に登場するキャラクターは大別して二種類ある。白雪姫と女王、王子、猟師という「人間キャラ」と、七人のこびとや小動物に代表される「ファンタジーのキャラ」である。後者はディズニーが得意とする世界であり、いかにもマンガ風にデフォルメされている。性格がマンガ風なのも、外見と同様だ。

 しかし外見がリアルに描かれる人間キャラも、内面はマンガなのである。この言葉が悪ければ「象徴的」と言い換えてもよい。たとえば女王は嫉妬の象徴であるし、白雪姫は純真の象徴であって、これは最後まで変化しない。王子にいたっては内面すら存在せず、ただの「幸せの記号」に過ぎない。

 七人のこびと達にもそれぞれ「ごきげん」「おとぼけ」「ねぼすけ」といった「機能」が与えられている。たいへんにわかりやすく、誤解の余地はない。ただ近代的なドラマ作法から考えて、これらがリアルでないのは「葛藤」が存在しないからである。

 人間には多面性があり、善もあれば悪の部分もある。このあいだで揺れ動くのが人間の心理であって、ネガティブな心理からポジティブなそれへの移動、すなわち成長を描くことが近代的ドラマのひとつの目的だとするなら、『白雪姫』で描かれたドラマはまったく前近代的であるといえる。まさに古典的な「おとぎ話」の作法に忠実なのであり、それゆえ普遍的ともいえるのだが(ただし猟師と「おこりんぼ」は例外である。この二人だけには葛藤が存在し、作品に深みを与える役を担っている)。

 もちろん「悪は滅びる」というドラマはある。しかし魔女(女王)が最後に倒れるのはたんなる自滅であって、ヒロインがこれに立ち向かった結果ではない。白雪姫は泣いたり笑ったりするが、それは周囲の状況に対する単純な反応に過ぎず、彼女の内面がそれによって変化をとげる(すなわち成長する)ことはありえない。

『白雪姫』の世界は閉じている。ディズニーが実現しようとしたものは、人間の脳内にのみ存在する象徴的な世界である。そのため彼は人間の感情を要素ごとに分解し、キャラクターとしての外見を与えた。つまりこの作品は全体として「一人の人間の内面」を描いたものなのであり、「象徴劇」として成功していることに間違いはない。

 だが、ここに「他者」は存在しない。おそらく王子との恋愛を描くことに失敗したのはそのためだ。他者、すなわち「自分とは違う人格」を描けずして、恋愛は描けないからである。

●「わたしはトウモロコシを作っているのだし、トウモロコシが好きなのだ」

 これは『ファンタジア』(Fantasia '40) 完成後、「あなたは自分の作品を芸術だと思いますか?」という新聞記者の質問に答えて発したウォルトの言葉である。彼のいう「トウモロコシ」とは大衆娯楽の意味であろう。この言葉からは慎重に「アート」と距離を置くディズニーの姿勢が感じられる。

 とはいえこういう質問が発せられることじたい、40年代当時のディズニー作品のクオリティがたんなる「娯楽」では片づけることのできない水準に達していたことを示していよう。またウォルトが自作を「トウモロコシ」と韜晦ぎみに答えたことも、逆説的に「アート」を意識していたことを感じさせる。

 一般に『ファンタジア』は、ウォルト・ディズニーがもっとも「アート」に接近した作品であると考えられている。いずれも美術レベルは高く、非常にバラエティに富んだ作品群であり、パートによって違いはあるが、おおむねストーリー性は希薄だ(最もストーリー性が強い『魔法使いの弟子』にもセリフはない)。代わりに前面に押し出されるのは、当時最先端のサウンド技術(『ファンタジア』は世界初の立体音響映画)と極彩色テクニカラー映像による、豪華絢爛な一大絵巻である。

 またこの作品には、世界中のアート・フィルムからの影響が陰に陽に感じられる。その「元ネタ」となった作品群は、現在でも評価の高いものが多いが、一般大衆の視線からは超マイナーなものばかりである。そうしたアート作品に注目していたことじたい、ウォルトの「眼力」の確かさを証明しているともいえるわけだが、結果として完成作品は、見事にディズニー流アレンジがなされたエンターティンメントになっていた。

●現実逃避の美学

 私見では『くるみ割り人形』がこの作品の最高パートである。ここにはディズニーとスタッフが過去の作品で培った、技術と経験のすべてが注ぎ込まれている。可憐な妖精、踊るキノコ、幽玄美あふれる金魚、マルチプレーン撮影の威力を存分に発揮した自然描写、どれをとっても完璧に超現実的であり、的確なアニメートと色彩が、この作品に「サイケデリック・アートの古典」としての風格を与えている。

『蒸気船ウィリー』('28)からわずか12年で、アニメーションはここまで来てしまった。これ以上のものを製作することは、現在の技術をもってしても困難であろう。近年公開された『ファンタジア2000』の、インスピレーションのかけらもない無惨なCG表現を見てもそれはわかる。

 しかし『ファンタジア』は公開当初、失敗作と見なされた。音楽界やアート界からは邪道と呼ばれ、一般の観客からは「芸術」として敬遠されたのだ。莫大な制作費は回収できず、ウォルトは破産の危機に見舞われた。

 この作品の「元がとれた」のは実に初公開から25年後である。60年代後半、アメリカの青年層を中心にサイケデリック革命の嵐が吹き荒れた。当時LSDは合法であり、幻覚剤を服用して映画館に行った青年たちによって『ファンタジア』は「発見」されたのだ。口コミによる宣伝効果で、リバイバルされていた映画館には大勢の若者がつめかけたという。

 これは、ウォルトにとっては本意ではなかったかもしれないが、彼らは彼らなりにディズニー作品に潜む本質に気づいていたといっていい。ファミリー・ムービーの陰に隠れた「危険な本質」に。

●わかりやすくて、圧倒的なもの

 アニメーションは、本質的には映像それじたいで成立する表現だ。サウンドやストーリーがなくとも「絵が動くこと」そのものが魅力なのであり、的確な技術とセンスがあれば、作品は成立しうる。この講義でも紹介したウィンザー・マッケイの『リトル・ニモ』('11)がいい例である。

 アートは純粋性を希求する。「その手法でなければ表現できないもの」を実現するのがアートの目的なのである。したがって「観客を喜ばせるためには手段を選ばない」ウォルトが、アート界から黙殺されたのも当然であった。ディズニー作品は、アートとしてはあまりにも「よけいなもの」が多すぎるのだ。

 しかし、ウォルトはもともとショーマンなのだから、この種の批判はおそらくまとはずれであろう。彼が相手にしていたものは、気まぐれでとらえどころのない「大衆という名前の怪物」である。彼はこの怪物を自分に振り向かせることに、全生涯を費やした。ウォルトが恐れたものは、一部の知識人や芸術家からの批判ではなく、大衆の無視であった。

 大衆はジャンルの純粋性などという高尚なテーマには興味を示さない。ゆえに彼の作品は「万人にとってわかりやすいもの」でなければならず、同時に「圧倒的なもの」でなければならなかった。このどちらが欠けても大衆の賞賛は得られない。誰もが知っているシンプルなおとぎ話を、常識はずれの予算、考え得る限りの技術を駆使して圧倒的な作品に仕立て上げたのはそのためである。写実主義も、大衆の理解(わかりやすさ)を重視した結果であるとすれば得心がいく。

 エンターティナーは一種の「病気」である。大衆の視線、支持なくして生きられないという意味において、強迫神経症的である。ゆえにその表現は「大衆を誘惑する技術」として特化される。この「誘惑術」に関して、ウォルト・ディズニーはまぎれもない天才であった。

 だからこそウォルトは他人に先駆けてトーキー映画を作り、カラー映像に挑戦し、長編作品という形で「別世界のリアル」を作って大衆を誘惑した。その行き着いた果てが、人間の感覚すべてを操作するバーチャル・リアリティ装置としてのディズニーランドである。

 歴史上、エンターティナーは数多いが、この域にまで達する者はそうはいない。その意味では、ウォルトその人じたいが一個の怪物であった。怪物を相手にする者は、自身も怪物となるのである。

●参考文献

第一回と第二回では多くの文献を参考にしたが、事実の確認以外、直接的な引用はしていない。特に参考にしたものは以下の二つである。

▼『カートゥーン・アニメーション100年史』(権藤俊司氏のwebサイトに掲載)
http://homepage1.nifty.com/gon2/index1.html
↑権藤氏による翻訳が現在中断しているのが残念。しかし戦前に関してはほぼすべてをフォローしていて貴重。

▼世界アニメーション映画史(伴野孝司・望月信夫/PULP)
↑日本語で出版されている世界アニメの通史としては、現在唯一の基本文献。現在絶版らしく、アマゾンマーケットプレイスではメチャクチャな値段になっているので、大きい図書館での閲覧をお勧めする。

また現在発売されている『白雪姫』正規版DVD(二枚組)は、作品の成立過程に関する驚くほど貴重な映像資料が満載で、大変参考になる。ここまでオマケが豪華なDVDは滅多にない。今なら定価で購入できるので、お買い得だ。

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