コミックマヴォVol.5

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2008/06/18

マンガとアニメーションの間に(2-2)

■京都精華大学特別講義テキスト

●マンガとアニメーションの間に(2-2)
 第二回「ウォルト・ディズニーをどうとらえるべきか」(2)

●講師・竹熊健太郎

●キャラクターとは何か

 キャラクターとは字義通りに解釈するなら「人物の性格」の意であるが、アニメーションやマンガの世界でこの言葉が使われる場合、背景から独立して行動する「主体」そのものを指す。この場合の「主体」は人間とは限らない。動物や植物、場合によっては機械や岩石など無機物であっても、意志を持ち活動するのがマンガ・アニメのキャラクターであって、それが描線で表現された被創造物である以上、作品内においては人間と等価の存在である。

 もちろん外見が動物や無機物であっても、それが「キャラクター」として認識されるからには、結局それは人間の内面や行動がカリカチュア(戯画)として象徴的に描写された姿にほかならない。その意味ではどのような姿をとろうともそれは人間そのものだといえる。ただカリカチュアであるから、写実とはおのずと表現の目的が異なる。

 ひとくちにカリカチュアといってもいくつかの種類がある。ひとつは人間の外観の一部を誇張(デフォルメ)して描写する場合である。たとえば大きな鼻に特徴がある人なら、天狗のような、現実にはありえないくらい大きな鼻に描くといった具合だ。マンガでいう「似顔絵」はたいていがこうしたデフォルメによっていて、写実的な描写ではないが、現実から乖離しているわけではない。むしろそれは「現実の強調」と呼ぶのが正しい。

 もうひとつは、対象となる人物の「内面」をなにかの外観に見立てて描写する場合である。たとえばやたらと怒りっぽい暴力的な人がいるとすると、それをゴリラやオオカミに見立ててキャラクター化することも、カリカチュアの一種である。

 一般に、人間の内面(心)をそのまま視覚化することはできない。心や感情には物理的な形がないからである。心を直接的に表現する媒体は「言葉」である。したがって、詩歌や小説などの文芸作品において心理描写が発達したのは必然なのだが、絵画やマンガのようなビジュアル表現でこれを行うには、それなりの工夫が必要となる。

 これが写実絵画の場合、たとえば誰かの泣いている顔や、怒った顔をそのまま客観的に描写することになるだろう。もちろんこれはこれで心理表現になっているが、それはあくまでも、人間がそうした感情にとらわれた一瞬を切り取って描写しているにすぎない。人間には多彩な感情があるわけで、つねに笑っているだけの人や、怒っているだけの人は現実には存在しない。

 しかしこれをカリカチュアとしてキャラクターに見立てて描写した場合、作品内世界においては、「泣き」や「怒り」といった感情そのものに具体的な個別性・自立性が与えられることになる。感情に「形」を与えることで、あたかもそれじたいが独立した人格であるかのように描写することが可能になるのである。ディズニーの『白雪姫』に登場する七人のこびとには、「ハッピー(ごきげん)」や「グランピー(おこりんぼ)」といった名前が与えられ、それぞれの名を反映した性格とデザインが与えられている。これは、人間の感情そのものを分割してキャラクター化した例である。

 これがマンガやアニメーションにおける「キャラクター」のひとつの本質である。つまりキャラクターとは人間の心の一部を切り出して象徴化したものなのであり、その限りでは単純な存在だが、別種の「心」を象徴したキャラクターを複数登場させて、たがいに絡み合わせることで、全体としては複雑なドラマを創造することも可能となる。それは非現実な世界とはいえ、心理的にはリアルな表現となりうるのである。

●ファンタジーと現実

 ディズニーとフライシャー兄弟は30年代を通じて最大のライバル関係であった。そのことがアニメーションにさまざまな表現手法を生み出したわけだが、こと「ストーリー」に対する考え方も両者には大きな違いがある。

 作品の構成、ストーリーテリングの完成度ではディズニーの圧勝である。フライシャーの『坊やと小鳥(Song Of The Birds)』('35)に見る唐突なハッピーエンドのぎこちなさは、ディズニー作品の、たとえば『空飛ぶネズミ(The Flying Mouse)』('34)の展開のスムーズさとは比べるべくもない。

 だが『坊やと小鳥』における、「自分が殺してしまった小鳥の葬式」を一晩中見るはめになる子供の「とりかえしのつかないことをしてしまった」という後悔の念、それを残酷と思えるほど克明に描写する冷徹な視点は、明らかにディズニーとは異なるフライシャーの「作家性」といえる。

 これは、よく似た構成をもつディズニーの『子守歌』(Lullaby Land '33)とフライシャーの『よいこの夢』(Somewhere In Dreamland '36)を比べてもわかる。両作とも「子供の夢」をモチーフにしている点では同じだが、母親によって安全に守られた赤ん坊が見る夢(これはシュルレアリズム表現が見事)を描いた前者と、貧困の極みにある兄妹の見る夢を描いた後者では、たとえ描写に似た部分があっても、見終わった後の印象がまるで違ってくるのだ。

 ファンタジー(夢の論理)をその内側から描写するディズニーと、ファンタジーに「現実」を持ち込んでしまうフライシャー。それは30年代アメリカ・アニメの幅の広さでもあったが、一般観客の支持がどちらに集まるかは時間の問題であった。

●ディズニーによる「“虚構”の勝利宣言」

ミッキー・マウスがいかに人気があったかということを象徴する作品がある。ディズニーが1933年に製作した『名優オンパレード』(Mickey's Gala Premiere Disney,1933)がそれである。ミッキー・マウスの新作プレミア・ショウがハリウッドのチャイニーズシアターで開かれ、正装したミッキーとミニーが現れる。そればかりではなく、チャップリンやキートン、マルクス兄弟、ヴァレンチノをはじめ、往年のハリウッドを代表する大スターが会場いっぱいに詰めかけて、ミッキーの新作に腹を抱えて笑い転げる。そして口々に「君は素晴らしい!」「最高だ!」と叫んでミッキーに握手を求め、キスを浴びせるのだ。

 この作品の最後は夢オチであって、「これは冗談なんですよ」という意図が言い訳のように添えられている。それでも印象に残るのは、誇らしげに賞賛を浴びるミッキーの笑顔だけなのである。

 正直言って、目を疑いたくなるような傲慢な作品だ。なにしろこの世に実際は存在しないセル画のキャラクターがプレミアの主賓となるばかりか、「君こそスターの中のスターだ!」と「実在のスター」から祝福を受けるのであるから。

 この時のミッキーマウスは、映画雑誌で人気投票をすれば実在のスターに混じって上位に位置するスターであることは事実であった。だからといってこういう作品を作るというのは、ウォルトは何を考えていたのかよくわからないが、自分の作品に対する絶対の自信は伝わってくる。まるで「自分の作る虚構は現実を凌駕したのだ」と言わんばかりに。実際、彼はこの翌年、「本当に現実を凌駕する虚構」の製作に着手するのだ。その作品はもはや「夢オチ」ではなかった。

●ウォルトは気が狂ったか

 1934年春、ウォルトは積年の悲願であった長編アニメーションの企画に着手した。『ミッキーマウス』『シリー・シンフォニー』で育てたスタッフは、『白雪姫』(Snow White and Seven Dwarfs)完成時には700人を超えていた。その膨大な才能と費用を注ぎ込んだ『白雪姫』は、まさに空前の大作となった。製作期間3年、総作画枚数25万枚、当初の予算50万ドルを大幅に超過して最終的には150万ドル(現在の3000万ドル以上)の巨費を費やし、'37年12月にプレミア公開された。

 それまでアニメーションといえば実写映画の添え物であり、ニュース映画や宣伝映画などと一緒に上映されることが一般的だった。そのため作品時間が10分を超えることはめったになかったのだ。アニメで長編を作り、それ一本で客を呼ぶという行為は、当時のハリウッドの常識を超えていた。途中で制作費が尽きたにもかかわらず、全財産を投じて製作を続行するウォルトの姿を見て、彼は発狂したとまで噂された。

『白雪姫』から『ピノキオ』(Pinocchio '40)、そして『ファンタジア』(Fantasia '40)に至る時期は、ディズニーの絶頂期であると同時に、アメリカン・アニメーションの絶頂期でもある。この三作についていうなら、現在に至るまで、これほど贅沢に作られたアニメーションは存在しない。

●リアリズムという困難

 およそ芸術家にとって「リアルな表現」を追求することは自然な欲求である。だが、たんにリアルを実現するだけでは作品とはいえない。いかに「本物そっくり」に描こうとそれは本物ではないのだし、本物の迫力にはかなわない。

『白雪姫』は、長編アニメーションということじたいが冒険であったが、「リアルな人間を主人公にする」ということでも前代未聞の冒険であった。ここでいうリアルとは、視覚的リアリズム(写実)という意味である。

 もちろんたんなる写実なら、はるか以前に実現されていた。マックス・フライシャーが1915年に発明したロトスコープがそれである。だが、これによって表現されるリアリズムは非常に奇妙なものであった。

 動きそのものはリアルなのだが、セルに均質な線でトレースすることで実写の微妙なディティールは抜け落ちてしまう。機械的に輪郭をなぞるだけなので、筆先に込める描き手の肉体性、すなわちタッチを表出することもできない。結果「客観的な形と動き」のみがフィルムに残ることになるが、こうした「客観的なリアルさ」に対して、人間は感情移入することができないのである。それはどこか証明写真の味けなさに似ている。

 当然、この事実にフライシャーは気づいていた。そのためロトスコープ作画に適切なデフォルメを加えることで、他の手描き場面との調和をはかり、そのまま写すことはしなかったのだ。アニメにおいてはすべてを人間の手で描く「マンガ的」キャラクターのほうが、映像としてはるかに生き生きとする。そもそも視覚的な写実性のみを追求するなら、最初から実写で製作すればよいだけの話である。

 ゆえにディズニーが『白雪姫』で「写実的な人間」を主人公にしたことは、技術的に困難であったばかりでなく、アニメとしては矛盾した試みでさえあった。理想は機械的なトレースに頼らず「作家の目と腕」でリアルを創出することであるが、'30年代当時、アニメーションの技術はそこまで成熟していなかった。

●『春の女神』の失敗

 1934年、ウォルトは『シリー・シンフォニー』の一編として『春の女神』(The Goddess Of Spring)を製作する。これはディズニーが最初に写実的キャラクター描写を試みた作品で、『白雪姫』に向けてのテストの意味がこめられていた。

 結果は大失敗だった。描き出されたのは、写実ともマンガともつかない珍妙な女神が関節を無視したタコ踊りを踊っているような映像で、演出は感動的に盛り上げようと努力しているものの、肝心のビジュアルがこれでは失笑するしかない。

 ウォルトも『春の女神』には頭を抱え、そこからアニメーターの美術教育に力を入れ始めた。一流の講師を雇ってデッサンの基礎から鍛え直しただけではなく、人間のあらゆる「動き」をフィルムにおさめ、それをスローモーションで解析するという気が遠くなるような作業を始めたのだ。ウォルトが開いた「美術学校」は、もはや伝説である。それはたんなる学校ではなく「動きの総合研究所」といった性格を持っていた。

 同時に彼は「女性らしい動き」を得意とするアニメーターを雇い入れた。グリム・ナトウィックである。彼はアニメーションの初期から活躍していたベテランで、フライシャー・スタジオ在籍中には、あのベティ・ブープをデザインした人物として知られている。

 ディズニー・スタジオでのナトウィックの初仕事が『クッキー・カーニバル』(The Cookie Carnival '35)である。お菓子の国で美人コンテストが開かれる。さまざまなお菓子の美女たちが、砂糖やクリームでできた衣装を身にまとってパレードに参加するが、ただひとり、みすぼらしい身なりの少女が道ばたで泣いている。それを見かけた旅人が衣装を即席で用意してやり、彼女はクッキー・クィーンの座を射止める。

 他愛もないストーリーだが、ナトウィックの描く女性には、それまでのディズニー作品にはない新鮮さがあった。彼は白雪姫のメイン・アニメーターに任命され、それからの二年間「リアルで非現実な」お姫様と格闘するはめになる。

 ウォルトの脳裏にあったヒロイン像は、写実的でありながら非現実的なファンタジー世界との調和がとれたキャラクターであった。それまでのアニメーションが描いたキャラクターは主に「笑い」を目的としたもので、それゆえ極端なデフォルメが施されるのが常であったが、こうした従来通りのデザインでは、観客を泣かせたり、ましてや感動させることはできないとウォルトは考えたようである。

 もちろん現在のマンガやアニメの水準を知るわれわれから見れば、これは間違いである。かりに『ちびまる子ちゃん』のようなシンプルなキャラクターでも、演出さえ適切なら観客を感動させることは可能だ。しかし『白雪姫』が当時としてはまったく前例のないタイプの作品であったことを考えると、彼らがこの作品に捧げた努力は賞賛に値しよう。 (つづく)

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