マンガとアニメーションの間に(1-1)
■京都精華大学特別講義テキスト
●マンガとアニメーションの間に(1-1)
第一回「ウィンザー・マッケイの人と業績」(1)
●講師・竹熊健太郎
●視覚による音楽……時間芸術とは何か
芸術は「空間芸術」「時間芸術」のふたつに大別される。
空間芸術とは、絵画・彫刻等、静止した空間における形態や色彩を扱う表現である。時間芸術とは、これに加えて直接的・間接的に「時間の流れ」を扱うものをいう。
「空間芸術」の代表が絵画だとすれば、「時間芸術」の代表は音楽である。時間は、音楽にとって表現そのものを規定する根本要素であるが、これは聴覚そのものがもつ特質に依っている。「静止した音」は原理的に存在しえない。どのような音楽でも、それが「音」として認識されるからには、そこには必ず「時間の流れ」が存在しているのである。
これに対して絵画や彫刻などは、基本的には静止物を扱うもので、時間とは本来無縁の表現である。あえて視覚的手法で時間を扱おうとする場合、そこには必ず「形態ないしは位置の変化(動き)」がともなうことになる。その場合、一枚の絵・ひとつの立体物でそうした変化を表すことは困難なのであって、最低でも「変化する以前・以後」のふたつのビジュアルが要求されることになる。立体物の場合、機械的な動力装置を仕込むことでこれが可能になる場合がある。
歴史上、人間はさまざまな表現行為を模索してきたが、こと音楽以外の手法で「時間」を扱うことは困難であった。例外は演劇、そして物語のある絵巻物などであるが、それ以外の視覚的表現でこれを扱うには、実質上、映画や複数コマの組み合わせによるマンガの発明を待つしかなかった。こうしたテクニックの発明により、はじめて「ビジュアルによる時間操作」が可能になったといえる。
私の講義で扱う題材は、主にコママンガとアニメーションであるが、このふたつをつなげるものは「絵画表現を用いた時間芸術」であるということだ。もちろん同じ時間芸術といっても、両者における時間の扱いかたは根本的に異なっている。これをひとことでいうなら、マンガにおける時間が「読者の側」にあるのに対して、アニメ(または映画)のそれは「作家の側」にある。言葉を換えれば、マンガのあるページを1秒で読もうが、1時間かけようが読者の自由であるが、映画やアニメのそれは、基本的に「作家の意図した時間=観客の時間」となる。これは決定的な違いであり、講義の中で再び論じるつもりだが、いずれにしても「視覚的に時間を扱いたい」というモチベーションは共通しているといえる。
●「コマ」の発明
19世紀末、ヨーロッパにおいて「複数のコマ」を組み合わせて一連の物語を表現するマンガ(コミック・ストリップ=連なる絵)が始まった。おりしも映画の発明とほぼ同時期であり(コミック・ストリップのほうが少し早い)、ここに連続する絵(映像)による「視覚による時間芸術」の歴史が始まる。
1827年にスイスの画家ロドルフ・テプフェルが複数のコマを組み合わせた「ヴィユーボワ氏の恋」を執筆。ただしこれには言葉は使われない、絵だけのものであった。テプフェル以降、この流れは一時途絶える。
1889年になると、フランスのジョルジュ・コロンブが児童雑誌「プチ・フランセ・イリュストレ」に『フヌイヤール一家』を連載した。これがコミック・ストリップの直接的な原型であるとされる。この流れはアメリカに伝播し、1892年ジェイムス・スウィナートンが『小熊と腕白小僧』を連載。
1896年、リチャード・フェルトン・アウトコールが「ニューヨーク・ワールド」誌に『イエローキッド』を連載。ここで「フキダシ(スピーチバルーン)」が初めて使われたとされる(前例はあるが)。ストーリー性のあるコママンガが一般に普及したという意味では、この作品が最初と言ってもいいだろう。一般には、これがコミック・ストリップ(連続コママンガ)の始まりであるとされている。
●映画とマンガは同時に誕生した
まずは映画の発明について簡単に説明する。前史にはマレーの写真銃、マイブリッジの電磁シャッターによる連続写真とズープラキシスコープ(円盤の円周上に動物の動きなどを分割して配置し、回転させることで動きをリアルに再現するもの)、そしてエジソンのキネトスコープなど各種がある。
このうち、映画につながる最初の重要な発明がアメリカの写真家マイブリッジが手がけた連続写真である。時間を「視覚的に」保存し、かつ加工することが映画の本質であるが、その原理を考えるなら、それは静止画の連続であることがわかる。映画に先立つ20年ほど前(1875年頃)、「時間=動き」が複数の静止画として分割しうることをマイブリッジは発見した。彼は十数台のスチルカメラを地面に並べ、独自に開発した高速電磁シャッターの原理により、走る馬の分解写真を撮影して世間を驚かせたのだ。
この分解写真を反対に連続して映写すれば、写真が「動いて見える」ことに気が付いたのがエジソンである。彼が発明したキネトスコープは、分解写真を回転式ドラムに複数枚セットし、クランクでドラムを回しながら覗き穴から見る方式であり、安価な映画装置として爆発的なブームを巻き起こした。
この方式をさらに発展させたものが、現在主流となっているフィルム・リール方式による映画だが、これは1895年、フランスのリュミエール兄弟が考案したとされる。
アニメーションは、原理的には映画の発明以前から知られていたが、フィルムの形でアニメを作った最初は1906年のJ・スチュアート・ブラックトン作『愉快な百面相』であるとされる。
翌1907年にはフランスのエミール・コールが同様の趣向による『ファントーシュ』シリーズを公開、1,2分の短編アニメだが大好評で、シリーズは400本も作られた。さらに1911年、マンガ家であるウィンザー・マッケイが自作の『リトル・二モ』を自らアニメ化して公開(製作は1910年)。こうしてアニメーションの歴史が始まったのである。
映画の始まりと連続コママンガの始まりが同時期という事実には、たいへん興味深いものがある。フィルムと紙という媒体の違い、それによる表現の違いはあるが、いずれも「連続した静止画によって動きを表す」という意味では共通している。
すでに述べたように、動きとは「移動」あるいは「変化」であり、つまりは「時間」を直接的に表現したものに他ならない。また、その効果が「物語」を指向することはある意味必然である。物語とは、一連の出来事を因果関係に沿って叙述するものであり、時間をそのままの形で扱うものではないが、明らかに時間要素を内包したものにほかならないからだ。
そして、初期のアニメーターの多くがマンガ家であったという事実も相互の影響を考えるうえで見落とせない。アニメとストーリーマンガは、もちろん別の美学的目的を持つ異なる表現分野であるものの、そこには多くの類似点が見いだせるのである。
●ウィンザー・マッケイについて
ウィンザー・ゼニス・マッケイ(Winsor Zenas McCay 1871-1934)はアメリカン・コミック史における最初の、そしておそらくは最大の天才である。代表作『夢の国のリトル・ニモ』(Little Nemo in SlumberLand,1905~14)は、その圧倒的な美しさと幻想的なイマジネーションで、百年前の作品であるにもかかわらず、今もなお、世界中の読者とクリエイターに衝撃を与え続けている。
マッケイはまた、史上最初期のアニメーターでもあった。アニメ第一作『リトル・ニモ』(1911)は、ストーリーもなく、自作のキャラクターをただ動かしただけの実験作であるが、その端正な作画と優雅なアニメート、華麗なイマジネーションはすでに完璧の域に達している。まさにこれは、アニメーション百年の幕開けを言祝(ことほ)ぐにふさわしい、奇跡の映像といえるだろう。
1871年に生まれたマッケイは、1891年、シンシナティで見世物小屋や大衆演芸のための舞台美術に従事した。マッケイのショービジネスとの関係はここに始まる。当時の演芸場には、スタンダップ・コメディの一分野としてマンガ家の出番があった。ライトニング・スケッチ、またはチョークトークと呼ばれるその演芸ジャンルは、舞台上に「マンガ芸人」が登場し、当意即妙な会話を交えながら、白紙や黒板に素早くこっけいな絵を描いて観客を喜ばせるというものである。この時期、マッケイは多くの「マンガ芸人」と知遇を得、やがて自らも舞台にのぼるようになった。
マッケイが知り合った「マンガ芸人」の一人には、おそらくブラックトンもいたはずである。ブラックトンは世界最初のアニメーターとして歴史に名を残した人物だ。彼が1900年に自ら監督・主演した『魔法の絵』は、厳密にはまだアニメとは呼べないが、当時のライトニング・スケッチのスタイルがよく伺えて興味深い。ブラックトンが白紙に木炭で顔を描くと、その顔が一瞬にして笑ったり驚いたりする。もちろん途中のコマを抜いただけの初歩のトリック撮影であるが、映画そのものに免疫のなかった当時の観客はさぞや驚いたことだろう。
『魔法の絵』の数年後、ブラックトンは『愉快な百面相』(1906)を発表した。これは黒板にチョークで絵を描き、それを少しずつ変化させながらコマ撮影したもので、まぎれもなくアニメーションそのものである。マッケイ・アニメの初期作品はブラックトンのスタジオで撮影されているが、このことから考えても、マッケイにアニメの手ほどきをしたのはブラックトンであることに、ほぼ間違いない。
シンシナティ時代にマッケイは雑誌「LIFE」からイラストの依頼を受けた。それは馬が走る動きを正確に分割した6コマの絵であった。
子供時代のマッケイがマイブリッジの連続分解写真を見ていたであろうことは想像に難くない。彼のコママンガに特徴的なものは、事物の動きや、形態が変化(メタモルフォーゼ)するさまを執拗に描いているということだ。これを平面で実現するものがコマの働きである。
またマッケイは「夢の作家」と呼ばれるほど夢にこだわったマンガ家である。当然そのほとんどが夢オチなのだが、もともとマッケイの興味はオチにあるのではなく「イメージが変化する過程」そのものにあるので、これでいいのだとも言える。
メタモルフォーゼは、普通の日常生活ではあまりお目にはかかれない現象である。いや実は目にしているのだが、タイムレンジが長すぎて意識に昇らないというのが正しい。典型的なメタモルフォーゼには、数秒のうちに朝顔の芽が出てツルが伸び花が咲くような映像がある。しかしこれは映画フィルムが発明され、微速度撮影が開発されて初めて人類が目にすることが可能になった感覚なのである。それ以前に人間が、はっきりとしたメタモルフォーゼを目にすることがあったとすれば、それは夢によってであろう。
人間のイメージというものは、なかなかひとつ場所に固定してはくれない。それは意識的によほど努力しなければ、とりとめもなく姿を変え、あげくに雲散霧消してしまうものなのだ。この夢の不思議な性質に注目し、それがわれわれの深層意識の活動であることを唱えた人間がフロイトである。マッケイもまたフロイトと同世代人であるが、彼が『夢判断』(1900)や『精神分析入門』(1917)を読んでいたかどうかは定かではない。ただひとつ言えることは、マッケイはフロイトと同じ時期に、画家の立場から夢の不思議な性質に注目し、これを視覚的に定着するべく孤軍奮闘していたということである。
まさにこれはシュルレアリスムの先取りであるといえる。アンドレ・ブルトンがフロイトの影響を受けて「シュルレアリスム宣言」を執筆したのが1924年であったことを考えると、マッケイの先駆性には恐るべきものがある。シュルレアリストの多くは後に映画に注目していくが、これ先立つこと十数年、マッケイはまったくのエンターティメントの立場から、マンガとアニメでこれを実現していたのである。
1903年にニューヨークに移り住んだマッケイは、1904年に『くしゃみのサミー』を発表、これがマッケイ初のヒット作品となった。そして同年、まさに夢をテーマにした『チーズトーストの悪夢』シリーズを開始する。これはマッケイによる「世にも奇妙な物語」であり、ビジュアルとストーリーの高度な融合が、早くも見られる。
かくして夢に対するマッケイの興味は頂点に達し、1905年の『夢の国のリトル・ニモ』へと繋がっていく。幼い少年ニモが毎晩見る夢の世界は、それは目覚めによって必ず破られるとはいえ、明らかにもうひとつの現実(超現実)として描かれる。
それは時間を平面にコマ分割することで初めて実現しえたイメージの奇跡だった。『リトル・ニモ』のどのエピソードでもよい、いずれも7コマから10コマ程度の作品だが、それがあたかも「アニメの原画」のように動きが分割されていることに驚くであろう。そしてこれが始まったのは、アニメが誕生する以前であることを考えたとき、現代のわれわれにとって二重の驚きが生まれるのである。マッケイは、アニメが生まれる以前から「アニメーターそのもの」であった。彼がアニメに向かうことは当然だったといえる。
『リトル・ニモ』はマッケイに巨大な名声をもたらした。1910年、彼はいよいよ次なる事業……アニメーション制作に着手した。すでに彼は38歳になっていた。 (その2に続く)
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