いつからマンガ家の住所は秘密になったのか?
ええと、このエントリを読んでいる皆さんは、マンガ家の連絡先がどの出版社でもトップシークレットになっていることはご存じですよね。特に近年はプライバシーの保護に社会全体が厳しいですから、作家の連絡先が秘密になることは当然ではないかとお考えの人は多いと思います。でも、かつてはどのマンガ雑誌にも堂々と作家の連絡先が掲載されていたといったら、若い人は驚くでしょうか。
←同じ号の65P「あしたのジョー」の欄外には、堂々とちば先生の住所が!
左の図版をご覧ください。たまたま俺の部屋にあった「少年マガジン」1972年の12号(3月12日号)を見ると、誌面に堂々とちばてつや先生の連絡先が載っています。ちば先生だけではありません。梶原一騎先生も、赤塚不二夫先生も、作家の連絡先は全部誌面に載っているのです。
72年といえば俺は小学校6年生でしたが、少なくともこの頃までは、作家の住所が番地まで雑誌に載っていることが普通でした。ちなみに掲載図版では一部を伏せていますが、オリジナルにはバッチリ全部載っています。
マンガ好きのよい子の皆さんは、ファンレターを編集部に送るなんてまどろっこしいことはせず、直接マンガ家先生の住所に送ることが当然でした。というか、編集部がそれを奨励していたわけです。東京に住んでいるよい子は、日曜日に色紙を持ってマンガ家先生の自宅に押しかけてサインをもらうこともよくありました。それでも大きなトラブルはなかったのです。
で、今回の疑問は、「いつから作家の連絡先は部外秘になったのか?」ということだったりするわけです。これはもう、72年以降のマンガ雑誌をしらみ潰しに当たっていけば判明するのですけれど、今はその余裕がありません。
ただ俺の推理を書くなら、おそらく73年から74年にかけてのどこかではないかと思うわけです。これは作家のプライバシーに気を配るようになったから、というわけではありません。もっとビジネスライクな理由だと思います。その論拠を以下に示します。
このところの原油価格高騰で、燃料代がまかなえずに漁船のみなさんが一斉休業、というニュースで持ちきりですよね。このニュースはしかし、俺より上の世代には懐かしい感じがあるかもしれません。というのも、35年前(1973年)にもものすごいオイルショックがあったからです。
今回の原油高は、まだ軽油やガソリン以外の物価への影響がはっきりしてませんけど、35年前のあのときには、いきなり不可解な形であらゆるものの物価が上がってました。74年には23パーセントも物価が上昇して、狂乱物価なんて言われていたわけです。そのうえなぜか極端な紙不足になりまして、主婦が半狂乱でトイレットペーパーを買い占めたりしてました。俺は中学1年だったんで覚えているんですが、未だに原油不足→紙不足→トイレットペーパー買い占めに至った理由がよくわかりません。風が吹けば桶屋が儲かる式の、風評被害の一種かなとは思うんですが。
というわけで、ウィキペディアで「トイレットペーパー騒動」を調べてみたら、あっさり謎が解けました。当時の通産大臣だった中曽根康弘さんが、原油危機を受けて「紙節約の呼びかけ」をしたところから火がついた騒動だったのですね。にしても、なんでことさら紙不足を呼びかけたんでしょうね。
それでもあの頃、紙不足の影響で、少年マガジンと少年サンデーのページ数がいきなり半分くらいになったときはインパクトがありましたよ。両誌とも老舗のマンガ誌だったので、当然誌面はベテランが中心。だからあの時期、両誌から新人がデビューする余地はほとんどなくなっていたはずです。その間隙を突いて部数を伸ばしたのが、若手と新人作家中心の「少年チャンピオン」「少年ジャンプ」だったというわけです。
チャンピオンって今や見る影もありませんが、70年代中盤だけは本当にマンガ雑誌のチャンピオンだったんですよ。その後ジャンプに抜かれて、以降ジャンプの独走態勢が20年くらい続くわけですが。
それで小学館と講談社をはじめとする大手版元が、雑誌で採算をとることを断念してコミックス(単行本)に力を入れるようになったのはたぶん73年のオイルショックがきっかけだったはずで、そこから雑誌の赤字を単行本で補填し、なおかつ利益を上げるビジネスモデルが始まったと思うんですよね。それまではサンデーの人気連載の単行本が秋田書店の「サンデー・コミックス」から出たりしてましたから。これのヒットがあったんで、秋田はチャンピオンを創刊できたはずです。
http://www.bizarrebooks.jp/comiclist/akitas.htm
↑秋田書店サンデーコミックス・リスト集 「どろろ」「サブマリン707」など少年サンデー連載の作品が多いが、少年マガジンの「8マン」や少年キングの「サイボーグ009」など、60年代の各社の人気連載を片っ端から単行本化していた。そのくらい、まだ雑誌連載と単行本は「別物」だと思われていたのである。このシリーズのヒットにより、秋田書店は念願の週刊マンガ誌が創刊できたといわれる。
そういうわけで、マンガ誌の欄外に「○○先生に励ましのお便りを出そう!」と人気作家の本物の住所が載っていたのも、正確には調べてみないとわかりませんが、73~74年くらいを境にして姿を消したと思われるわけです。70年代頭までに出ていた「マンガの描き方」みたいな入門書にも、必ず巻末に作家の住所が一覧表になっていました。今では考えられないくらい、牧歌的な時代だったんですよ。
それで、なんでオープンだった作家の住所が企業秘密になっていったのかという理由なんですが、おそらくオイルショックをきっかけにして各社ともマンガ単行本で経営を支えるようになったからじゃないかと思うんですよ。
以下、『マンガ原稿料はなぜ安いのか?』でも書いた推理なんですけど、俺の考えでは、流れとしてだいたいこんな感じではないかと思うんです。
●60年代までは、雑誌連載だけで版元も作家も十分に“利益を出していた”(その証拠として、雑誌連載を同じ版元から単行本にする習慣がなかった)。
●ところが1973年のオイルショックによる異常な紙不足があり、
●雑誌はページを減らしてなおも値上げせざるをえなくなった。それでも雑誌単体の売り上げは赤字になった(おそらく雑誌の値上げ幅を最小限に抑えたため)。
●そのために原稿料を各誌とも据え置くようになった(手塚先生もこの時期から原稿料を上げなくなった?)
●そして版元も作家も、単行本の売り上げで赤字を埋め、なおかつ儲けを出すようになり、雑誌は単行本を出すための原稿蓄積手段となっていく。
●60年代までは、自社の連載作品を他社が単行本にしても鷹揚に構えていた大手版元は、一転して作家の連絡先を秘密にし、作家を“囲い込んで”自社連載を自社で単行本にするようになった。
というわけで、これが作家の住所や連絡先を「企業秘密」にするようになった経緯なのではないかなと俺は思うわけです。まあ、あくまでこれは状況証拠から推理した仮説ですけどね。
とりあえずは、この夏にも図書館で「いつから雑誌に作家の連絡先を記載しなくなったか」を調べてみたいと思います。俺の推理が正しければ、73~4年頃のどこかだと思うんですがねえ。どなたかこの時期のマガジン・サンデーのバックナンバーをお持ちの方がいらっしゃいましたら、教えていただけないですかね? 漫棚通信さんとか、もしかしてわかりませんでしょうか。
ともあれ、73年の石油危機(をきっかけにした紙不足と物価高)は、マンガ界の構造を根本から変えるくらい大きい出来事だったと俺は思うわけです。はたして今回の石油危機は、いかなるインパクトをマンガ界にもたらすのでしょうか。もっともマンガどころか、日本の産業全体がひっくり返ることにならなければいいんですけど。
※追記 その後コメント掲示板やmixiのコメントで「75年までは雑誌にマンガ家の住所が載っていた」との証言を得ました。俺は、もう少し早い印象があったのだけれど、どうも75~76年あたりに分水嶺があったようです。もう少し調べてみないとはっきりしたことはいえませんが。オイルショックをきっかけにマンガ家の住所を載せなくなったという俺の仮説はこれで崩れたわけですが、しかしマンガ界のビジネスモデルが雑誌型から単行本型に大きく舵を切ったのは73年のオイルショックがきっかけではないか、という考えは捨てていません。
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