パンダとポニョ(2)
(※前回からの続き)
なぜ宮崎駿に限って例外的な映画作り(極端な作家的独裁)が許されるのかといえば、もちろん大ヒットするからであって、それ以上でも以下でもありません。しかしなぜヒットするのか、その理由について、俺はこれまで納得のいく説明を読んだことがありません。絵が綺麗だとか、動きが素晴らしいとか、高いテーマ性があるからとか、音楽がいいとか、いくらでも説明はあるのだけれども、それだけが理由だとは、どうも思えないのです。
なぜなら宮崎アニメ以外にも、高いテーマ性をもっていたり、映像や音楽が素晴らしい作品はいくらでもあるからです。もちろん宮崎駿が天才であって、高い芸術性と娯楽性を併せ持った巨匠だということは分かっています。そんなこと、小学生でも知っている。しかし、具体的にどこがよくて、何がヒットの原因なのか説明しろと言われると、とたんによくわからなくなるのです。
宮崎アニメについては昔から言われていることがふたつあって、それは「プロット(物語の組み立て)が破綻している」ということと「プロットの破綻が気にならないほど映像が素晴らしい」ということです。ここでの「映像」には、キャラクターデザイン・背景美術・編集・そして「動き」が含まれます。
要するに、アニメーション作家として宮崎は天才なのだが、お話そのものは、尻切れトンボだったり、実はよく分からないという声が多いのです。というか、俺自身、宮崎アニメの大ファンでありながら昔からそう思っていました。
先日、ある映画会社のプロデューサーさんと食事する機会があったんですが、話題が『ポニョ』のことになりまして、彼はさかんに「ポニョは素晴らしい」と絶賛しているのですね。で、ひとしきり褒めた後、
「でも、あれと同じ内容のシナリオが持ち込まれたとしたら、僕は絶対に通しません」
と真顔でおっしゃったわけです。俺が「え? では、ポニョのどこがよかったのですか」と聞いたら、
「何と言っても画ですよ。画作りにかけては宮崎さんは天才ですね。それから『ポニョの歌』。あの歌は反則です。口ずさんだら最後、その人は必ず劇場に足を運ぶでしょう」
要するにそのプロデューサー氏も、プロの目から見て宮崎アニメのシナリオは失格なのだが、それ以外が素晴らしいから客は集まる。客さえ来れば後はどうでもいい、とまではさすがに言いませんでしたが、それに近いことをおっしゃっていたわけです。
映画というものは巨額の予算がかかり、企画から公開まで、監督の仕事以外の一切を取り仕切るのがプロデューサーの役割です。そして共同制作物としての映画にとって、まずスポンサーに資金を出させるための一番の説得材料が映画の設計図としてのシナリオということになります。制作に入ってからは、大勢のスタッフをとりまとめるために、シナリオが絶対に必要になります。普通は。
ところが、宮崎アニメにシナリオは存在しないわけなんです(アテレコ用台本はありますが、これは映像が完成した後に絵コンテから起こしたものです)。これはかなり有名な話ですけど。かわりにあるのが絵コンテですが、宮崎さんは、文字によるシナリオを作らずに、マンガ家がまずネームを切ってそこでセリフやストーリーを考えるように、コンテを切るわけですね。
コンテがあればいいじゃないか、と思われるかも知りませんが、宮崎監督の問題は、最後までコンテが完成しない段階で制作に突入することです。これは映画制作ではちょっと考えられないことです。(香港映画では、盗作を防ぐために末端スタッフにはシナリオを見せずに撮影に入るらしいですが、これとは話が違います。宮崎アニメでは、監督本人も結末がわからないまま、制作に入ってしまうのです)
いつから宮崎駿さんがシナリオを書かなくなった(いきなりコンテから始めるようになった)のか、よくわからないんですが、少なくとも『天空の城ラピュタ』のときには、もうシナリオはありませんでした。これは俺自身、直接宮崎監督本人から確認しております。
俺、ラピュタが春休みに封切られる前の年(1985年)の12月に、宮崎監督にお会いして話を聞いているんです。それも『ラピュタ』の話ではなく、当時俺が編集していた諸星大二郎のムック(『諸星大二郎・西遊妖猿伝の世界』)の中で、ぜひ宮崎監督の談話が欲しいと思って連絡したんです。今ではありえないそうですが、当時ジブリは設立されたばかりで、電話をかけたら「ちょっとお待ちください」と言われて、監督本人がすぐに出ました。
「今新作の作業で忙しいんです。あと3ヶ月で公開なんだ。今度にしてください」と断られたんですが(当然ですね)、俺が「そこをなんとか」と電話口で粘りましたら、「えい、もう断る時間がもったいないから30分だけ会いましょう!」と言われましたので、やった!と思って吉祥寺にあったジブリまで足を運んだんです(結局お会いしたら、監督は諸星の『マッドメン』について2時間しゃべり続けでした)。それでインタビューが終わりまして、最後に俺が「この春に公開される『ラピュタ』、楽しみにしています」と言ったら、
「今、ラストシーンを考えてる最中なんですよ。まだシナリオが出来てないんです。イヒヒヒ」
と宮崎監督がお笑いになるので、ビックリしました。だってとっくに制作は進行していて、公開まであと3ヶ月しかないんですよ。俺はこのとき初めて、宮崎監督はシナリオ作らないまま制作に入るんだ、ということを知ったわけです。お話は作りながら考えるという、まるで週刊連載マンガ家そのものではないかと思いました。
それでも『ラピュタ』は予定通り公開されました。どんな映画になったんだろうと思って映画館に足を運んだ俺は、とにかく冒頭のシータが飛行船から墜落するシーンで心を鷲づかみにされ、その後も怒濤のイマジネーションの洪水に酔いしれたのでしたが、とうとうクライマックスにさしかかったわけです。さあこのドラマをどう収拾つけるのかと固唾を呑んで見守っていましたら、いきなりパズーとシータが手を繋いで
「バルス!」
と叫んで突然ラピュタが崩壊したので、椅子からずり落ちそうになりました。今、その時の俺の心境を2ちゃんのAAで表現するならば、
「工工エエエエ(´Д`)エエエエ工工」
これで終わり? とポカンとしたことは言うまでもありません。『ラピュタ』は好きな作品ではありますが、バルスはないだろう、バルスは!と今でも唖然とするばかりです。
今、あえて宮崎アニメをシナリオ・レベルで考えるなら、こないだのプロデューサー氏の言い分はもっともだと思います。シナリオとして映画学校の学生が書いたとしたら、まず間違いなく赤点を喰らって、書き直しを命じられるようなものであります。ドラマとしての組み立てが、あってないようなものですから。
たとえば大ヒットした『千と千尋の神隠し』にしても、最後のシーンで豚の群れが出てきて、豚になった両親がこの中にいると示されます。ところが、なぜか千尋は「ここに両親はいないわ!」とズバリ見抜くのです。そこに理屈も伏線もありません。
しかしドラマ構成の基本から考えると、そもそも豚になった両親を救うことが千尋の目的であったはずで、両親を見つけ出して千尋の意志で人間に戻さなければ映画は終わらないはずなのですが。どうも宮崎監督は、両親が豚のまま死のうがどうなろうが、どうでもいいと考えていたとしか思えないのです。
結局、宮崎監督はただ「大当たり~」のセリフで誤魔化すように終わらせてしまいました。宮崎監督には、そもそも「ドラマのつじつまを合わせる」ことへの興味が最初からないとしか思えません。
今度の『ポニョ』に至っては、そこに理屈もへったくれもなく、ただ宮崎駿が作りたいから作ったというものです。『カンフー・パンダ』の監督が誰で、スタッフが誰かはよく知りませんが、いかなる天才が参加していようと、特定の誰かの一存で「作りたいから作った」という作品では断じてありません。
『カンフー・パンダ』には、まず間違いなくプロットからシナリオまで複数の人間の手が入っているはずで、さらにコンテ・映像製作・ポストプロダクションに至るまで、多くの人間による、果てしのないディスカッションを経て作り出されたに違いないのです。その過程では、あらゆる矛盾が吟味されて、世界の誰が見ても理解できるよう「わかりやすいもの」にされていきます。何度も申し上げるように、宮崎アニメの作り方とは正反対です。世界中の人間から入場料をいただく「商品」を作る立場からすれば、もちろんこれが正解なのです。
もちろん『カンフー・パンダ』についても、あそこの表現はどうしてああなったのかとか、プロットや演出で疑問を感じるところがないではありません。しかしそれは、あくまでウェルメイドな作品という範囲内で「俺だったらこうする」という「好み」の話であって、間違っても『ポニョ』のように「意味がわからない」部分は皆無なのです。 (もう一回続く)
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