パンダとポニョ(3)
(※前回から続く)
ところで、以前のエントリ(→★)でも書きましたが、ポニョは「さかなの子」と主題歌で歌われているにも関わらず、とても魚には見えないという問題があります。どちらかといえばそれは、江戸時代の画にある妖怪の人魚にしか見えないわけです。(左図)
←人魚図 江戸時代の瓦版 笹間良彦『図説・日本未確認生物事典』より
しかし、主人公の宗介はポニョを見て開口一番「あ、金魚だ」と言いますし、お母さんのリサも、保育園の友達も「可愛い金魚」と言います。このことから、私たち観客は、これは人間のような目鼻がついており、髪まで生えていてどうも金魚には見えないけど、そこは「マンガのウソ」というやつで、こう見えても金魚なのだろう。金魚に違いない。と、うっかり考えてしまいます。
それはあたかも、二本足で歩いて人間の言葉をしゃべるミッキーマウスを見て、とてもネズミには見えないけれど名前がマウスだからネズミなんだろう。と考えるようなものです。虚構の中では、作者が「ネズミだ」と示せば誰がなんと言おうとそれはネズミなので、こうしたことを俺は便宜上「マンガ(アニメ)のウソ」と呼んでおります。伊藤剛君は、現実的に考えたらよくわからない存在だが、マンガの中でのみ、ネズミやウサギ、魚に見えるこうしたものを「マンガのおばけ」と呼んでいました。虚構の中だけで成立する図像的お約束ということです。
↑http://anime3.2ch.net/test/read.cgi/animovie/1216647701/775 より
『ポニョ』を「マンガのウソ(マンガのおばけ)」問題の見地から考えたとき、きわめて本質をとらえたイラストをネット掲示板で見つけました(上図)。作者が不詳なのですが、ポニョを見たとき誰もが感じる違和感の正体が、ズバリ写実的に描かれています。これはアニメ絵の段階では、はっきりとは気がつかないようなものですが、リアルに考えればこうなります。映画では、こういうバケモノが「ソースケ、大好き~!」と言って抱きついてくるわけです。
『ポニョ』の本質はホラー映画であることを、この作者は誰よりも早く見抜いて絵として描き、ネットに上げたのでしょう。あまりに感動したので使わせていただきました。作者の方、もしこれを読まれていましたら、よろしければ竹熊までご連絡ください(※)。
※上のポニョ絵の作者さんが判明しました。柔日重兵衛さんという方です。大変に才能のある人だと思います。以下が出典です。
http://blog.livedoor.jp/tokyonuenue/archives/65126563.html
もちろんアニメのポニョは、とてもかわいらしく描かれていますので、登場人物も観客も、まず可愛いと信じて疑わないのですが、それはもしかすると、オウム信者には麻原彰晃がイケメンに見えるようなもの(左図)なのかもしれません。俺の気のせいだったらいいのですが。
それはともかく、「可愛い金魚」であるはずのポニョなのですが、映画に出てくるおトキばあさんだけは、ポニョを一目見て「おお嫌だ、人面魚じゃないか!」と叫んで毛嫌いするのです。これは、多くの人が驚いている『ポニョ』の重大なポイントです。
ここで、観客がうっすらと感じていた違和感は最初のピークを迎えるのです。そんなこと言っちゃって本当にいいのかと。それはあたかも、ミッキーマウスの映画の中で別の登場人物(実写)が現れ、「このネズミのバケモノ!」と言うようなものではないでしょうか。
マンガやアニメの世界にあっては、ネズミが人間みたいに服を着て二本足で歩き、庭付きの家に住んで犬を飼っていたとしても、それはそういうアニメだからであって、それを疑問に思ってはいけないお約束になっているわけです。そのお約束は、通常疑うことが許されません。疑ったが最後、作品世界が根本的に崩壊してしまうからです。
『カンフー・パンダ』においては、この「マンガのウソ」は忠実に守られていて、たとえパンダの父親が中華料理屋を経営するガチョウであったとしても、「なんでガチョウとパンダが親子なんだよ!」と怒る人はたぶん一人もいません。本来マンガ(アニメ)とは、そういうものだからです。(※追記 俺ヒアリングが苦手なので、掲示板で読者から指摘されるまで気がつきませんでしたが、原語の会話中には、パンダとガチョウが親子であることの不自然さを当人同士で指摘する箇所があるそうです。しかしこれはもともとあるアニメのお約束にツッコむ自己パロディであって、たぶん普通に映画を見た人は言われるまで気にしないのではないかと思います)。
では、なぜ宮崎監督は、作品世界が崩壊する危険を犯してまで、おトキばあさんに「この人面魚!」と言わせたのでしょうか。ここが、実はよくわかりません。何かとても深い意図があったのか、それとも何も考えていなかったかのどちらかではないでしょうか。
これはすでに多くの人が指摘しているのですが、『崖の上のポニョ』には、こうした作品世界を成立させるうえでの「前提条件のほころび」が、数え切れないくらいに見受けられます。過去にも宮崎アニメには、こうしたつじつまが合わない箇所が確かにあったのですが、はるかに穏当なものでした。『ポニョ』はそれが多すぎて、しかも説明がまったくないので、観客は「あら可愛い」とか「まあ綺麗」だとか考える以前に、不安になって黙ってしまうのです。
これに対して、「宮崎監督は“五歳の子供のために作った”のだから、幼児のようにあるがままを受け止めればいいのだ」という意見があります。たぶん宮崎監督もそれを望んでいるのだと思いますが、幼児が一人で映画館に来るはずはありません。
幼児を連れてきたお母様がたは、この映画に『トトロ』とか『ファインディング・ニモ』みたいな安心して見られる作品を期待しているはずなのです。ところが『ポニョ』を見たら、何かが違うので、内心困っているのではないでしょうか。
町山智浩さんが、ブログで『ポニョ』はけしからん映画だと怒っていました。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20080727
↑町山智浩「人の親として『崖の上のポニョ』で許せないこと」
ここで町山さんは、以下のように項目を挙げて『ポニョ』を「親として許せない」と非難されています。(※ 現在なぜか列挙された項目のみ削除されているんですが、上のリンク先にあるポッドキャストで同内容の話を聞くことができます。)
①幼い息子を乗せて別に何も急いでないのに無意味な危険運転を繰り返す母親
②嵐で避難勧告が出ているにもかかわらず、子どもを乗せて危険な崖の上の家に帰る母親
③路面が冠水しているにもかかわらず、猛スピードで急ブレーキ急ハンドルを繰り返す母親
④海水魚を入れたバケツに水道水を注ぐ子ども(井戸水であっても即死)
⑤自分たちの名前を息子に呼び捨てにさせている過剰に民主主義的な両親
⑥洪水の夜に5歳の子どもを自宅に置き去りにする母親
これはいちいちもっともな話で、俺は子供を持つ親ではありませんが、確かにこの映画には「人としていかがなものか」と思われる描写が頻発します。普通に考えて『ポニョ』の登場人物は全員気が違っているのではないか、と不安になります。この不安感は、以前の宮崎アニメではほとんど感じなかった部分です。
しかし今回宮崎監督は、「アニメーションの初源に戻って作る」と制作意図を表明しています。これは、さまざまな解釈が可能な発言だと思いますが、これを俺は
「もう、つじつまとか整合性とか、わしゃ知らんの! 今回は無意識のリミッター全面解除して作っちゃうんでよろしく! 母親が危険運転して事故ってペシャンコになったとしても、どうせこれはアニメなんだから死なないし口から空気入れで膨らませれば元に戻るの! アニメだから魚が半魚人になって人間になってもいいの! 作品がグチャグチャで、バカとか狂人とか思われてもいいの! 理由とかつじつまなんて面白くないの! アニメってそういうものなの! 面白ければわしゃなんでもいいの!」
という意思表示だと解釈しました。ここまで開き直っている人に対して、作品の整合性がムチャクチャじゃないかとか、人として許せないと言って非難するのは、まったくその通りなんですけど、おそらく言っても無駄なのではないかと思います。
俺が最初のエントリにおいて、『ポニョ』をつげ義春の『ねじ式』になぞらえ、「この映画は、宮崎駿が夜見る『夢』(無意識)を描いたシュルレアリスム作品」だと書いたのも、こういう意味からです。ポニョや宗介、母親のリサのとるいちいち無意味で不可解だが「確信的」な行動も、宮崎監督の見た夢だと考えれば、納得が行きます。
俺自身、最近見た夢の中で、気がついたら自分が屋根の上に登っており、はるか地上を見下ろしてヒヤリとしたことがあります。そのヒヤリとした感覚は今も生々しく思い出せるのですが、どうして自分があんな場所に登ったのかがまったく思い出せません。理由はわからないけど、なぜか「確信」を持ってその行動をとっている。夢(無意識による自我のあらわれ)とは、そういうものではないでしょうか。
『崖の上のポニョ』という作品から、「クトゥルー神話」や「ニーベルンゲンの歌」などの影響を読み取る人がいます。たぶんそれは正しいです。どれかひとつが正しいということはなく、たぶん全部が正しいのだと思います。『崖の上のポニョ』は、そうした影響のもろもろが全部融合したカオスが、そのまま宮崎監督のフィルターを通って映画になったものなのでしょう。
人間の無意識とはなんだかわからないものがその本質なので、無意識をそのまま映画にすれば、なんだかわからないものになって当然だと思います。
そういえば「アニメの初源」で思い出しましたが、業界関係の人から、今回の宮崎監督は『ポニョ』の制作中に、やたらとディズニーなど戦前のアメリカ・アニメを参考に見ていたと聞きました。しかし俺はポニョを見て、ディズニーよりもフライシャー兄弟の作品を思い出しました。
『ポパイ』や『ベティ・ブープ』などで1930年代にディズニーと人気を二分していたフライシャー兄弟は、とにかくキャラクターが無意味にグチョグチョと変形することで有名です。しかし、そのことで生まれるアニメーションの強度はもの凄いものがあります。
ユーチューブを探したら、ベティ・ブープの最高傑作である『ベティの白雪姫』(1933)があったのでそのまま転載します(ベティ作品は、日本ではすべて著作権が失効しております)。
この動画では、後半に氷の棺に閉じこめられたベティを見て嘆き悲しんだ道化師のココが、魔女によって姿をバケモンに変えられながらも悲しげに『聖ジェームズ病院』(ブルースの名曲)を歌うという有名なシーンがあります。フライシャー作品にあっては、あらゆるものが意味もなくバケモノに変形しまくるわけです。
そしてポニョもまた、魚から両生類へ、そして人間へと変形したり元に戻ったりを繰り返します。これは人間の胎児の成長過程を思わせるものがあるわけですが、それだけではなく、「アニメの初源」という言葉から考えて、80年前のフライシャー作品への回帰もあるのではないでしょうか。実際『ルパン三世(セカンドシーズン)』の宮崎演出回では、フライシャーの『スーパーマン』から露骨にインスパイアされていたように、宮崎駿のフライシャー好きは昔から有名でした。
フライシャー作品の本質がオバケ映画であるように、『崖の上のポニョ』もオバケ映画であり、そもそもアニメの本質はオバケ映画だったのです。
メタモルフォーゼ(変形)は、アニメーションにのみ許された特権的な表現であります。そしてアニメーション以外の日常生活の中で、われわれがこれを経験することはまずありません。あるとすればただひとつ、我々の無意識の発露であるところの「夢」の中だけです。
したがって、「アニメの初源」に回帰して作られた『ポニョ』が、無意識を形象化するシュルレアリスム作品になってしまったことはしごく当然だと考えます。しかしこのようなアバンギャルドを、現代日本の興行ルートに「ご家族向け映画」として乗せてしまうことは、ただ宮崎駿にのみ許された何かの間違いではないでしょうか。
ここで最初の話に戻るのですが、宮崎駿が、ここまでの好き放題ができるのも、ひとえに日本映画史上未曾有の興行成績を上げ続けているからに他なりません。
作品がどんなにアバンギャルドで物語のつじつまが合って無くとも、売れる以上は、誰も、何の文句も言うことができないのです。結局俺は、なんで宮崎アニメがここまで売れているのか、その理由を解明することがついにできませんでした。とにかく売れていることは事実であり、この事実の前には、あらゆる批評の言葉は意味を失います。どんなに宮崎アニメの矛盾を指摘したところで、この資本主義社会においては、売れているものが絶対的に正しいわけですから。
もしかすると、若き日に社会主義者であった宮崎駿さんは、あえてわけもなく売れ続けることで、資本主義に対する嫌がらせをしているのかもしれません。
というわけで、「私はやっぱり資本主義がいい」というよい子の皆さんは、『ポニョ』はほどほどにして、『カンフー・パンダ』を見て安心しましょう。
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