コミックマヴォVol.5

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2008/10/31

マンガとアニメーションの間に(4-1)

■京都精華大学連続講義レジュメ

第四回「マンガ版『ナウシカ』はなぜ読みづらいのか?」(1)

講師 竹熊健太郎

【A】手塚治虫と宮崎駿の複雑な関係

●手塚の死去(1989年)に際して、様々な雑誌で追悼特集が組まれ、多くの識者が追悼文を寄せていたが、ひとり宮崎駿は、手塚のマンガ家としての功績を十分に認めながらもアニメ分野における手塚の活動を痛烈に批判して世間を唖然とさせた。

  →「だけどアニメーションに関しては───これだけはぼくが言う権利と幾ばくかの義務があると思うのでいいますが───これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張してきたことというのは、みんな間違いです」(手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と訣別した」宮崎駿 comicbox 1989.5月号)

  →宮崎は、手塚がアニメ作家としては「素人芸」であり「下手の横好き」であって、にもかかわらずマンガ家としての名声をバックにアニメ会社を作ってテレビアニメを始めたこと、それによって日本のアニメ制作環境が大きくねじ曲げられたことを辛辣に批判したのだ。

  →しかし一方で宮崎は、自分もかつては手塚に憧れてマンガ家を目指したことを告白している。宮崎の手塚に対する「愛憎」には根深いものがある。

  →一方の手塚は、あれほど他作家にライバル心をむき出しにする性格であったにもかかわらず、宮崎について公には不思議と何も語っていない。 

 →このあたりの事情は、アニメ史研究家・津堅信之の著書『日本アニメーションの力』『アニメ作家としての手塚治虫』(ともにNTT出版)に詳しい。津堅は、関係者の取材を通じて手塚の沈黙は実は手塚が宮崎を過剰に意識していたゆえではないかと推理、宮崎が「風の谷のナウシカ」で達成した仕事は、手塚がアニメでなそうとしていたこと(手塚がマンガで達成した雄大なテーマ性とストーリー性を持つ作品を、長編アニメーションで制作ししかも傑作にすること)を先取りされたことのショックによるものではないかという石坂啓の発言を引いて、それに賛意を示している。

【B】マンガ家を目指した幼少期

●宮崎駿は1941年(昭和16年)東京に生まれた。親は航空機会社の重役で、裕福な家庭に育ち幼少時から物語とマンガに親しむなど、趣味に没頭できる家庭環境に恵まれたという点では1928年(昭和3年)生まれの手塚治虫と共通点がある。

Sabakunomaou01←福島鉄次『沙漠の魔王』(1949-56) 

  →福島鉄次「沙漠の魔王」。宮崎が少年時代最も熱中した絵物語。「飛行石」のネタ元。

  →宮崎は手塚マンガのファンであり、のちに執筆したエッセイで、高校時代に自らの才能に絶望しそれまで描いたマンガをすべて焼却したと語っている。手塚をお手本にするばかりでは、絶対に手塚を超えられないと悟ったからだという。(『日本映画の現在』岩波書店)

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←東映動画時代、宮崎が秋津三朗名義で連載した絵物語『砂漠の民』(1969-70)

  →アニメーターとなってからも宮崎は、一度だけ秋津三朗のペンネームで「少年少女新聞」(赤旗)に『砂漠の民』を連載している。部分的にコマを割ってあるもののこれは絵物語で、『沙漠の魔王』へのオマージュであるとともに、後の『シュナの旅』『風の谷のナウシカ』の原型と呼ぶべき作品。

  →絵物語は戦後の一時期に大流行した、現在は失われている読み物ジャンルで、絵も文も一人の作家が書く。しかしマンガと異なり、絵と文章が分離していることが特徴である。宮崎の「マンガ」を考える際には無視できない分野。

【C】「演出志向」の新米アニメーター

●宮崎は1958年、東映動画が製作した日本最初のカラー長編『白蛇伝』を見て、アニメーターを志す。東映動画に入社後、ソビエトの『雪の女王』、フランスの『やぶにらみの暴君』を見て、ディズニーとは異なる種類のアニメーションがあることを知る。演出家の高畑勲や、アニメーターの森やすじ・大塚康生と出会い、強い刺激を受ける。

  →入社間もない1965年に参加した『ガリバーの宇宙旅行』(監督・黒田昌郎)ではラストシーンの原画を担当したが、脚本にはなかった演出を宮崎の判断で加えてしまい、(※註)動画を担当したが、原画の永沢詢、演出の黒田昌郎に強く進言して作品の結末を変えてしまった。ガリバーと主役のテッド少年が訪れたロボットの惑星で、ロボット姫の躯体が割れると中から人間の姫が現れる。

 伏線もなく、それまでの設定が覆される大きな改変であり、いったいどのような事情でこの変更を監督が認めたのかは定かではない。新人アニメーターとしては会社をクビになってもおかしくない行為だったが、宮崎はそうはならず、中核スタッフとして周囲から認められていった。彼の才能は、入社直後から周囲を圧倒していたというしかない。
  →宮崎は最初から演出志向の非常に強いアニメーターだった。

(※註 この部分を読まれた氷川竜介氏から訂正のコメントをいただきました。まず私が「原画」と書いたのは間違いで、当時宮崎は入社1年目の動画マンでした。次いで、動画が勝手に原画を書くことはありえないので、強く意見を述べてそれが受け入れられたのだろうということでした。確かにそれはその通りで、昔、大塚康生の「作画汗まみれ」を読んで、ややオーバーに思いこんでいたようです。以下その部分を引用。

《 『ガリバー』での驚きは、宮崎駿さんのラストシーンの変更です。
 ロボットのお姫さまを主人公のテッド少年が救うシーンの原画は永沢詢さんの担当でしたが、当時、入社して1年目の新人でまだ動画だった宮崎さんが、永沢さん、演出の黒田さんと話しあって、ロボットがパカッと割れて中から人間の女の子が出てくるように変えてしまったのです。
 たった1カットの変更ですが、作品の内容全体にかかわる重大な変更です。私もあとで聞いてびっくりしました。このころから宮崎さんは、作品全体のテーマ、人間の描き方に強い主張を持ってマンガ映画作りの中枢に迫っていたのです。》
(大塚康生「作画汗まみれ」(徳間書店)より)

  →高畑勲の初監督作品『太陽の王子ホルスの大冒険』に自主参加した宮崎は、この作品に膨大な量のイメージボードを提供し、作品クレジットには「場面設計」という前例のない役職で記載されている。絵の描けない高畑に代わって、「作画面での演出」に近い役割を担った『ホルス』は、まさに宮崎駿の原点でもある。

●71年に宮崎はフリーになり、『ホルス』の興行的不振の責任をとって先に退社していた高畑と共に『ルパン三世』『アルプスの少女ハイジ』などのテレビアニメで活躍する。

【D】初監督作品での挫折、そして失意の日々

●1978年『未来少年コナン』で初シリーズ監督を務め、79年『ルパン三世カリオストロの城』で劇場初監督。現在この作品はアクションアニメの最高傑作の呼び声が高いが、興行成績は振るわず、以後数年間宮崎は劇場作品が作れなかった。

  →この時期に匿名で演出したテレビシリーズの『ルパン三世』(セカンドシーズン)の最終話『さらば愛しきルパンよ』で、子供時代に見たフライシャーの『スーパーマン』の数シーンを大胆に下敷きにしたオマージュを捧げている。

  →この失意の時期に宮崎は『もののけ姫』の原案(のちの同名作品とは別物)や、『トトロ』のイメージボードなどを大量に執筆している。(人生は失意の時期に何をしていたかで決まるという見本のような話)。

【E】転機となった『風の谷のナウシカ』のマンガ連載とアニメ化
 
Nausikahyousi01 ←『風の谷のナウシカ』単行本第一巻(徳間書店)

●失意の宮崎に転機を与えたのは『アニメージュ』の編集者だった鈴木敏夫との出会いだった。彼は「アニメが作れないのなら、マンガを描いてくれ」と宮崎に依頼したのである。

  →宮崎はその十年ほど前の『砂漠の民』以来ペンを使って絵を描いたことがなく(宮崎の原画やイメージボードは、ほとんどが鉛筆と淡彩で描かれる)、その不安を鈴木に伝えたところ、鈴木は「鉛筆線だけでも印刷はできます」と答えたという。

  →鈴木には、マンガが話題になりさえすれば、それを口実にアニメ化もできる、そのときこそ宮崎に監督してもらおうという考えがあった。

  →鈴木の思惑は的中し、マンガ『ナウシカ』は話題作となり、アニメ化の企画が持ち上がった。当時『ナウシカ』のスタッフを務めたある人物の回想によれば、再びアニメーションを監督できる、しかし最後のチャンスになるかもしれないということで、宮崎の意気込みは死にもの狂いであったという。

  →宮崎はマンガ執筆を一時中断してアニメ制作に没頭、以後アニメ制作とマンガ連載を交互に進めながら、マンガ版『ナウシカ』は1982年の連載開始から'94年に完結するまで実に12年も続いた。

  →あくまでアニメを仕事のメインに置く宮崎の姿勢は、かつて彼が憧れていた手塚治虫の姿勢とは真逆である。手塚は、少年期からアニメを志しながらもまずマンガ家として成功し、その実績を背景にアニメ製作を始めた。しかし手塚には、宮崎駿や大友克洋のようにアニメ制作中はマンガ執筆を中断する決断と切り替えが最後までできなかった。ストーリーマンガで革命を起こした手塚も、アニメ作家としては凡庸な存在に終わっているのは、「兼業作家」を続けざるをえなかった手塚個人の問題もある。 (つづく)

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