マンガとアニメーションの間に(3-1)
※10月29日と30日に京都精華大学で「マンガとアニメーションの間に」と題した講義レジュメである。29日に手塚治虫を、30日に宮崎駿を講義するが、まずは手塚治虫のレジュメをアップする。
■京都精華大学連続講義レジュメ
第三回「手塚治虫の引き裂かれた夢」(1)
講師 竹熊健太郎
【A】手塚の「映画的手法」について
●初期手塚マンガを「映画のようなマンガだ」とする発言は、藤子不二雄Aをはじめ、『新宝島』(1947)などの初期作品をリアルタイムで読んだ世代によってしばしば語られている。
→初期手塚作品がどのように「映画的」なのかについては、諸説があり、多くの論者によってさまざまな角度から語られている。
→手塚作品が戦後の読者から「映画のようなマンガ」として受け止められたこと自体はおそらく間違いないが、フィルムによって構成される映画と紙の上に描かれるマンガとの間には、時間の扱い方において決定的な違いがあり、単純に映画と対比して語ってよいかは注意深い検討が必要。
→直接的に時間を扱う映画と、紙のうえで擬似的に時間を扱うマンガの表現としての違いについて。
←[A-1]「新宝島」冒頭ページ。映画的な「タテの構図」が絶大な効果をあげている。
→『新宝島』の場合、1ページ3段に分割された横長コマを基本としたコマ構成であり[A-1]、これは戦前の『のらくろ』(田河水泡)などと比べても特に新味はない[A-2]。
←[A-2]「のらくろ」より。舞台劇的で平面的な構図とコマ構成。
→しかし、『新宝島』には冒頭から「タテの構図」(映画の場合、これは画面の奥から手前、または手前から奥への移動を指す)が大胆に表現されていて、こうした構図は舞台劇的な上手・下手の横移動を基本とする『のらくろ』にはほとんど見られない。この奥行き構図の積極的使用が、手塚マンガが「映画的」と評された理由のひとつではないか。
→近年の研究(宮本大人など)によれば、同一化技法をはじめ、構図やコマ運びなどで映画から影響を受けた表現は戦前から見られるものであることがわかっている。従ってマンガにおける映画的手法を手塚の創始とするこれまで支配的だった見方には疑問が出てきたが、手塚はそうしたものを意図的に取り入れ、広く戦後マンガに普及させた功績はあると言えるだろう。
←[A-3]「メトロポリス」より。コマ構成をわざと均等割りし、人物が奥から手前へだんだん大きく迫ってくることで移動を強調表現している。
→映画的「タテの構図」(奥行き移動)表現の典型的な例が、『メトロポリス』(1949)に登場する[A-3]。ここまで極端なパース移動は、当時の実写映画では撮影が困難で、これもアニメーションから来ていると思われる(ただし、アニメでこれを描くとなると非常な手間がかかり、制作面では現実的ではない。ある意味ではこういう表現は、マンガが一番コストパフォーマンスにすぐれるものだといえる)。
【B】映画よりも「アニメーション的」な手塚マンガ
●一方で手塚マンガを「映画的というより、アニメーション的と呼ぶべきだ」という意見もある(マンガ家・すがやみつるなど)。
→(1)手塚自身が戦前から内外のアニメーション作品に触れており、自身もマンガ家になる以前からアニメーション制作を志していたことを、自伝や談話でたびたび表明している。ディズニーに憧れて『白雪姫』『バンビ』をそれぞれ数十回も劇場で見た逸話は有名だ。
←[B-1] 図版は「鉄腕アトム」より。それまでのマンガ家は丸ペンを研いで好みの太さで線を引いていたそうだが、手塚はカブラペンを好んで使用した。作画のスピードアップが最大の理由ではないかと初期から手塚を知る福元一義は筆者に証言したが、カブラペンは均質な線が引きやすく、セル画にもっとも近い味が出るという理由もあったと筆者は推理する。(「マンガの読み方」(別冊宝島)の自筆原稿より引用。
←[B-2] 図版は「忍者武芸帳」(白土三平)と「アイアン・マッスル」(園田光慶)。手塚の線と対比するために引用した。いずれも50-60年代の貸本劇画だが、劇画派はGペンによる強弱のついた肉体的な線を好み、アニメ的で均質な手塚タッチとの差別化をはかった。(同じく「マンガの読み方」より)
→(2)手塚マンガの円を基調とするキャラクター描写はディズニー・キャラクターの影響が強いと見られており、カブラペンによる均質な描線はセル画のそれを思わせる[B-1,B-2] 。
→(3)手塚マンガがテーマとモチーフの両面で「メタモルフォーゼ」(変形・変容)に固執していること。この講義の第一回でも述べたように、メタモルフォーゼはアニメーションの特権的な表現である。
←[B-3] 「バンパイヤ」の変身シーン。メタモルフォーゼとエロティシズムを融合させることが手塚の作家的特徴で、手塚が本質的にアニメーション的なマンガ家であることが理解できる。
→手塚マンガは、『バンパイヤ』のようにそのものズバリ「変身」を物語上のテーマにした作品[B-3]も多いが、『火の鳥・未来編』(1967-8)に登場する不定形生物のムーピーなど、本来の形を持たず、自在にその形を変える生物も登場する。『ロストワールド』(1948)の植物人間あやめ、『メトロポリス』の両性具有ロボットのミッチィ、『リボンの騎士』(1958-1959)の男装女騎士サファイアなどのように、男でも女でもなく、人間でもなく動物でもなく、動物でもなく植物でもなく、それら相反する属性を兼ね備えた「両義的なキャラクター」を好むことが手塚最大の作家的特徴である。『ジャングル大帝』は人間社会と野生の狭間に引き裂かれた人語を話すライオンの物語であり、『鉄腕アトム』は人間そっくりだが人間ではないロボットの物語である。ここでの「両義性」は、作品の物語から作画・キャラクターまでを貫くテーマとなっており、これらは彼の「アニメ好き」から来ているのではないかというのが、私の意見である。
→評論家・石上三登志との対談中に、手塚の作家的主題を考えるうえで示唆に富む発言がある。手塚が子供時代に見た夢を語ったものだが、ここからも手塚が本質的にメタモルフォーゼを好む作家であり、ゆえに「アニメーション的」な作家であることを示唆しているように思う。
手塚 ぼくは宝塚に住んでいたのですが、学校の帰り道にちょっと寂しい沼があって、そこを通って家に帰るんです。小学校とか中学校のころそこを通る夢をよく見ました。沼地の奥で得体の知れないものがブルブルふるえながらぼくを待っている。それをつかまえて自分の家に連れてくる。(中略)そいつがぼくのところに寄ってきて、つかまえて家に帰るまでに、なんだかわからないけどそいつがいつも変わるんです。
石上 これはという瞬間がないんですか。
手塚 ないんです。だから女にもなるし、男にもなるし、化け物にもなる。
(雑誌「奇想天外」'77・10)
●手塚は別の談話で、ある形から別の形に変化する瞬間に強烈なエロティシズムを感じると告白している。これは手塚の、おそらく無意識に属する作家的なモチベーションであり、同時に手塚作品が好まれる大きな理由になっていると思われる(読者は作品のテーマやストーリーのみに反応するのではない)。これが作画の上で現れたものが、たとえば『新世界ルルー』(1951)に見られる「女性の髪が巨大化して家になり、家の窓から本人が出現する」という表現などである[B-3]。
→メタモルフォーゼはフライシャーの得意技で、ベティ・ブープ・シリーズなどにはストーリー的整合性もなく、無軌道なメタモルフォーゼが多用されている。(※ちなみにフライシャー作品の日本での著作権はすべて失効している)。
●上の映像はベティ・ブープシリーズの『M.D』(邦題・ベティ博士とハイド 1932)。後半のスキャットに乗せた怒濤のメタモルフォーゼが圧巻である。一応『ジキルとハイド』のパロディだが、およそ論理性というものがなく、ただ音楽とノリだけで構成される怪作。初期手塚作品にも、随所にこうしたフライシャー的メタモルフォーゼが見られるわけだ 。
→なぜこういったデタラメができるのかというと、これが線で描かれたアニメ(マンガ)であり、それが何かの形(意味)である以前に「線であるから」としか言えないのである。我々の脳の認知作用は、線の集積から「意味」を読み取ろうとするわけだが、それは実は紙に描かれた線なのであり、それが船や猫である以前にインクの染みにすぎないことを、メタモルフォーゼは暴露してしまうのだ。
(つづく)
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