コミックマヴォVol.5

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2008/11/01

マンガとアニメーションの間に(4-2)

第四回「マンガ版『ナウシカ』はなぜ読みづらいのか?」(2)

【F】マンガ版『風の谷のナウシカ』の“読みづらさ”

●現在マンガ版『風の谷のナウシカ』は、ストーリーマンガ史上の傑作として評価が定着している。テーマと設定は、アメリカの作家フランク・ハーバートによるエコロジカルSFの傑作『デューン』に強く影響されている。『デューン』は遠い異星の文化・歴史から地理・生態系に至るまで、架空の世界構造が緻密に設定されていて読者を驚かせたが、宮崎の『ナウシカ』もまた、ハーバートに負けない高度な世界構築を「マンガ」として徹底したビジュアルで展開してみせた。

  →物語が進むにつれて宮崎の思想や政治意識、さらには人類への絶望と人間性への肯定=希望という相反する思弁的テーマに正面から取り組み、宮崎の作家としての「核」が描かれた力作となっていった。当初のエコロジー思想に基づく原始共産主義的・理想主義的テーマは、12年の連載の中で、人類文明に対して絶望しつつこれを肯定するという、思想のアクロバットというべき結末に至った。ストーリーマンガとしては手塚の『火の鳥』に劣らぬ雄大な構想を持った作品である。

  →宮崎の作品史では、マンガ版『ナウシカ』は同名のアニメ版よりも後年の『もののけ姫』とテーマを深く共有している。事実『もののけ姫』はファンや批評家からは『ナウシカ第2部』とまで呼ばれているが、2時間15分の作品時間内にあまりにも多くの内容を盛り込みすぎたため、興行は大ヒットしたが作品としては消化不良に終わった感がある。

●ところで1982年にマンガの『ナウシカ』を見たとき、私はテーマ性や世界の造形力に舌を巻いたものの、同時にその「マンガとしての読みにくさ」に驚いた。もちろんこれは主観的な意見であり、読みづらいか読みやすいかには個人差があるとは思う。しかし私のこの意見に同意される人もいるはずである。

【G】私が感じる「読みにくさ」の理由

Nausika01kan

←1983年発売の「ナウシカ」第1巻48Pより(連載開始は82年)。1コマごとの構図が完結しすぎていて、キャラと背景が同じ線質で等価に描かれている。したがってキャラが目立ちにくい。「絵」としては素晴らしいが、それとマンガとしての読みやすさは別。

  →(1)鉛筆で描かれているせいもあるが、キャラの「オモ線」が判然としない。一般的なマンガ執筆のセオリーとして、キャラクターを太くハッキリした線(オモ線)で描き、背景を丸ペンなど細い線で描いてキャラクターを背景から目立たせるというものがある。キャラと背景を均一の(しかも途切れがちの)線で描いてしまうと、キャラが背景に埋没するような印象になることが多いからだ。

  →(2)コマが「絵」として完成しすぎている。しかしそれはひとつのフレーム(コマ)の中の完成度であって、コマからコマへのつながり・読者の視線誘導が十分に意識されていない

  →(3)人物の顔の大きさがどのコマもほぼ一定である。「ナウシカ」のコマ割は、縦長・横長・斜めコマ・大ゴマ・小ゴマと多様に割られていて、これ自体は一般のマンガと比べてもほとんど差がない。問題は、人物の大きさがどのコマもほぼ一定であるので、コマ間のメリハリが乏しいということだ。「ナウシカ」においては、大ゴマで描かれるのはキャラクターではなく緻密な背景描写なのである。

  →キャラクターの行動を追うことで展開するストーリー作品としては、マンガとして人物を「目立たせる」工夫があまりに乏しいというほかはない。

  →ところが、作品の意図はキャラクターたちの関係性を描こうとする人間ドラマなのである。そのためドラマの目的と作画・構成が不一致を起こしている。

  →マンガ『ナウシカ』に見られる手法的な不協和音は、アニメ版ではまったく見られない。(アニメでは、キャラクターはちゃんと立っている)。

●映画は、各シーンの「長さ」(時間)を調節して「編集」によって作品を形づくる。これに対してマンガは、あくまで見開きの平面の中で「時間」を分割して配置(レイアウト)しなければならない。それが「コマ割り」と呼ばれるものである。

  →マンガは、映画(アニメ)と違って時間を直接的に扱うことができない。そこでコマの構図と形や大きさ、配置によって読者の視線を誘導し、擬似的に時間を表現することになる。初期の『ナウシカ』を読むと、宮崎が映画の時間感覚をマンガに置き換えようとして、コマ構成に悪戦苦闘している様子がうかがえて興味深い。

  →マンガ版『ナウシカ』に見られる技法的な齟齬は、コマ割りに慣れていないアニメーターやイラストレーターがマンガを描いたときにしばしば見られる欠点である。彼らは、ひとつのフレーム内で構図を完結させようとしすぎるのだ。

Nausika07kan ←1995年に出た最終巻(7巻)196Pより。上から4段目が端から端までの横長コマになっていて、その中央にナウシカの顔が大きく配されている。背景は集中線のみで、読者は否応なしにナウシカの顔に注目することになる。このようなコマ構成は最初のほうの巻にはほとんど登場しない。連載の過程で宮崎がマンガ的コマ構成を理解したことが伺える。

  →ただし、12年の時を経た7巻目になると、『ナウシカ』のコマ構成は格段に読みやすくなっていることを申し添えておきたい。コマ相互の配置も自然になり、その中でのキャラクターも、見開きで紙面を眺める際に読みやすくなるよう、大きさ的にもメリハリが効いている。手塚治虫がマンガにおいて成し遂げた成果とは、まさにこの自然に読者の視線を誘導するコマ運びの技術にほかならないのだが、宮崎も最後にこの呼吸を体得したように見える。

【H】宮崎アニメの映像処理

●マンガはさておき「本業」のアニメーションは、最初から宮崎の独壇場である。宮崎アニメにおいて第一に語られるものは、その生理的に心地よいカッティング(編集)とぺーシング(映像の間)である。

  →たとえば、『未来少年コナン』における三角塔脱出シーン(ロボットでの脱出シーン、コナンがラナを抱えて高所から落下するシーン)などが典型的。これらは同時に、娯楽映画にありがちな危機からの脱出シーンを心地よく「裏切る」演出的工夫が凝らされていて、宮崎の非凡さが際だっている。

●次に宮崎アニメを特徴づけるものとして「映像的空間処理」の非凡さがあげられる。かつて私は宮崎にインタビューを試みたことがあるが、そのとき宮崎の、観客の立場に立った空間把握へのこだわりに強い感銘を受けた。宮崎によれば、実写とアニメとを問わず、映画の中で観客に「空間を把握させること」には非常な困難がともなうと言う。

  →宮崎は、日本映画で「空間」のわかりやすさに特に配慮している作品として黒澤明の『用心棒』を挙げた。宿場町の道の中央に火の見櫓があり、それを挟んで町の二つの勢力が対峙している。主人公の浪人を演じる三船敏郎は、そのどちらにも荷担せず、火の見櫓に登って文字通り高見の見物を決め込む。
「しかしですね。映画が進むうち、どっちの勢力がどっちなのか観客は分からなくなるんですよ」と宮崎は言う。そしてこれは対立勢力を「平面上に配置したことから来る混乱」だと彼は言うのだ。マンガの『ナウシカ』でも、風の谷とトルメキアの位置関係を、地図まで載せて読者に伝えようとしたのだが、結局、トルメキアは風の谷のどちらの方角にあってどれほど離れているのか、読者ははっきりと理解できない。しかしそこをなんとかして伝えたいのだという宮崎の話を聞き、彼の「空間把握」へのこだわりに驚かされた。

  →宮崎によれば、自分が作品の中で「落下と上昇」にこだわるのも、上下移動は平面移動と違って「登っているのか下りているか、観客は直感的に理解する」と言うのだ。「映画は運動と移動を描くもので、それを直感的に把握させるには落ちるか、飛ぶのが一番です」と。

  →こういう観客の生理的認識に対する配慮こそが、宮崎駿を、国民的エンターティナーに押し上げた原動力であろう。ここまで徹底して「舞台の空間構造と、キャラクターの移動」に拘っている映像作家を私は知らない。

【I】「描写の奴隷」としての宮崎アニメ

手塚治虫は「物語」の作家である。彼のマンガ作品は、誤解を恐れず言うならつねに「物語を読者にわからせる目的」のみに奉仕している。私には手塚は「作画とキャラクターが物語の奴隷」に見えることがある。

高畑勲は「演出の奴隷」である。絵描きではない高畑は、どこまでも演出で人間ドラマを描こうとする。『ホルスの大冒険』に登場するヒルダは、人間の少女であって同時に悪魔の妹である。彼女の中には常に人間の心と悪魔の心が激しく葛藤している。あまりにも激しい葛藤を抱えた人間は、どのように振舞うかを考えた高畑は、そういう人間は「無表情」になることを発見した。

  →無表情のキャラクターを無表情のまま激しい心の内を描くことは、作画の力というよりも「演出の力」である。

宮崎駿は「描写の奴隷」である。文章で書いたら面白さが伝わらないようなシークエンスを、一大スペクタクルに変えてしまう力が、宮崎にはある。『となりのトトロ』の冒頭、サツキとメイが新しい家に引っ越しするシーンで10分もの時間を費やすシークエンスがいい例である。

  →いったいどこの世界に、本来はたんなる舞台説明にすぎない、本筋とはあまり関係がない引っ越しの場面にここまでの時間を費やして「引っ張る」映画作家がいるというのか。観客はサツキとメイとともに家の中を探検し、その過程で舞台である家の構造を完全に把握することができる。同時に、キャラクターに感情移入しつつ作品世界に引き込まれて行くのだ(手塚や高畑であれば、このシーンはせいぜい30秒~1分程度で済ませることだろう)。

  →『千と千尋の神隠し』における「腐ったヘドロのような怪物の入浴シーン」も宮崎ならではの表現である。このシーンの面白さは企画書やシナリオ(言葉)では伝達困難なもので、アニメーター出身の宮崎監督は、言葉による伝達プロセスを経ずしてこれを実現することが可能だったということである。このような表現は、一部の監督のみに認められた特権だと言える。

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昨日は萬画家の手塚治虫をアニメーションの影響とテレビアニメの観点から、今日はアニメーション監督の宮崎駿を萬画の影響と萬画製作の観点から講義という、さかしまの関係は面白いな。と。 講義の冒頭でも竹熊先生は「マンガとアニメは日本においては不可分の関係だ」とお... [続きを読む]

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