マンガとアニメーションの間に(5-1)
■京都精華大学連続講義レジュメ
第五回「反“物語”作家としての大友克洋」(1)
講師 竹熊健太郎
●70年代から80年代にかけてのマンガ状況
大友克洋は70年代前半にデビューした作家である。最初に、彼がデビューした70年代から80年代初頭にかけてのマンガ状況を整理してみる。この時期はマンガ界にとっては、空前絶後の大変動期であった。簡単にまとめてみると、
▲青年誌(ビッグコミック、漫画アクション、ヤングコミック等)の台頭により劇画状況が爛熟する。
▲オイルショックによる経済不況に加えて、青年誌に年長読者をとられ、「少年チャンピオン」「少年ジャンプ」などの新興少年誌に年少読者を奪われて、「少年サンデー」「少年マガジン」が大幅に部数を落とす。
→マンガ雑誌の世代交代が始まる。
▲男性読者も巻き込んだ一大少女マンガブームが起こる。
→その中心にいたのが竹宮恵子先生ら「24年組」と呼ばれた女性作家たち。
▲'75年に第一回コミックマーケット開催。
▲'77年頃から「マンガ少年」「マンガ奇想天外」などのマニア層を狙ったマニア雑誌が続々創刊。(同時にアニメブームも始まる)
以上、マンガ界のトレンドが劇画から少女マンガへ、そしてコミケやアニメブームも巻き込んだ「マニア雑誌」の流れができ、現在のマンガ・オタク文化の基盤が成立した。
こうした激動期の中で大友ははじめ青年誌でデビューし、70年代後半にはマニア誌に活動の幅を広げて、60年代までのマンガ・劇画・少女マンガの流れとも一線を画した「ニューウェーブ・マンガの騎手」と目されることになる。
●大友克洋の作画的特徴
大友克洋は注目された時期が比較的遅かったことから、70年代末に登場した作家だと思われがちだが、デビューは'73年である。70年代初頭より「少年サンデー」「COM」などに投稿を始め、'73年8月「週刊漫画アクション増刊」に発表した『銃声』が実質的なデビュー作となる。以後年に数作というマイペースで短編を発表し続け、'70年代中盤から一部のプロ作家・マンガマニアの間で注目されはじめた。
初期の大友がなぜさほどの注目を集めなかったというと、その極端な寡作ぶりに加え、描画のうえでも物語のうえでも「地味」だと思われていたからである。もちろん初期作品からも才能は明らかに感じられるし、作画も当時の主流から外れていたとはいえ、非常に高いレベルにあった。しかし初期大友に顕著な「盛り上がりを意図的に排した」作劇が、熱情と迫力を旨としていた従来の劇画の中にあって埋没した感は否めない。
初期大友のクールな作劇と描法は、爛熟期にあった「劇画」に対するアンチ・テーゼであると見ることもできる。劇画は、もとは手塚マンガに対するアンチ・テーゼとして出てきたマンガにおけるリアリズム表現運動だととらえることが可能だが、大友は手塚的描法に戻るのではなく、一方では劇画から始まった写実的描法を継承しつつも、それまでの劇画に見られた過剰な表現(タチキリ、過剰な効果線、漫符、アクションに伴う決めポーズ、等)を大胆に排除していった。
写実的手法という意味では、効果線や漫符などの形喩や、タチキリなどの演出は「実はリアルではない」と大友は考えたのだろう。これは、アクション映画の「お約束的演出」をことごとく排除することで独自のリアリズムを獲得した、北野武の初期監督作品とも通底する感覚である。
初期大友のリアリズム志向は徹底していて、通常なら描くべき「見せ場」すら判然としない作品も多い。これみよがしな見せ場は「リアルではない」ということだったのだろう。だが今日、大友の初期作品をあらためて見るとき、その徹底したアンチ・クライマックス主義が、'70年代の「気分」を真正面から捕らえていることに驚かされるのである。
'60年代が学生運動に象徴される政治の季節・反抗の季節だったとすれば、'70年代は学生運動が失速し、高度経済成長も終わったことで社会に一種の「無気力感」が生まれていた。多くの若者は、くすぶる気分を抱えながらも下宿で悶々とした日々を送っていたのである。マルクス思想に代わって日常的な恋愛や、インド思想などが流行となったが、いずれも個人的・内向的な価値観といえばいえる。
そうした中にあって、大友はごく普通の高校生や大学生の日常における「リアルな怠惰」を描き続けた。時に暴力やレイプ、非日常的な現象を扱ったとしても、旧来のマンガ的な「見せ場」や「格好よさ」をあえて外し、すこぶる客観的な視点で描いた。たとえば人が銃で撃たれるとき、撃ち手の「決めポーズ」や銃口のアップ、着弾の瞬間を描くのではなく、引いた構図で地面にドサリと倒れる「物のような人間」の描写に重点を置く。格好よい決めポーズはなく「決まらない、みっともなさ」をこそ大友は好むのであり、それが「リアル」であることを読者が受け入れるには、しばらくの時間を要したのである。
大友はかなり早い時期から丸ペンを使用していたようだ。従来の劇画では、主流はGペンによる強弱ある線であり、丸ペンは背景や効果線専用の補助的な道具とされていた。ところが大友は、強弱の希薄な丸ペンの細い線で、背景と人物を「同格」に描いたのである。大友マンガの客観性はここから生まれたが、これはそれまでの劇画手法ではまずありえない描法だった。そういう描き方をとった場合、普通は作画レベルで「キャラが立たない」のである。
さらには画面も最初期こそベタが多かったが、徐々に「黒さ」が薄れていき、構図もロングがもっぱらで、余白を大幅に生かす手法がとられるようになった。コマ割りもまた、タチキリのような過剰な処理を排したオーソドックスなものである。いわゆる「漫符」(形喩)もほとんど使われない。この時期の大友作画の特徴は、いわば徹底した「反マンガ的・実写映像指向」だったのである。
←70年代の大友作品によって、初めて東洋人としての造作をした日本人が描かれたと言われた。(「犯す」'76より)
キャラクター造型においても、吊り目で鼻を低くし、いかにも東洋人らしい日本人を描いたことも大友の「発明」といえる。たとえばさいとう・たかをの作品では、ゴルゴは東洋人という設定ながら造作的にとてもそうは見えない。こうした無国籍な画風が「マンガのウソ」として一般的だった当時、大友作品の身も蓋もない客観性は、確実に「新しいリアル」をもたらした。それはまた'70年代でなければ成立しえないリアルでもあった。
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