お父さんヤバス
「健太郎」
「なんだよ。どうかしたのかよ」
「こないだ、おれは兄貴の法要で山鹿に帰ったろう」(※註・うちの父親は熊本県山鹿市出身。この場合は実家に帰ったという意。)
「うん」
「実家で兄貴の遺品を整理していたんだが、そうしたら、こんなものが出てきた」
と言って、父親は一冊の古ぼけた本を差し出しました。クロース貼りの装丁で、表紙に奔馬が刺繍されております。どう見ても市販の本ではありません。
「何これ。日記帳?」
「そうだ。すっかり忘れてたんだが、日付が昭和28年になっているから、おれが20歳の頃のものだな。まだ東京に出る前につけていた日記なんだ。兄貴がこんなものをとっていたとは知らなかったよ」
「お父さんの日記を? 几帳面なおじさんだったんだね」
うちの父親は、20歳まで山鹿の実家にいて、昭和28年に上京して東京中野にある電気関係の専門学校に入学しているのです。しかしその時代のことは、断片的にしか父親から聞いたことがありません。俺は日記帳を受け取って、パラパラと茶褐色に変色したページをめくってみました。几帳面な文字で、なにやらビッシリ書き込まれていました。ところが…。
「なんだよこれ。最初のほうのページしか書かれてないじゃないか」
「うむ。そうなのだ。その年の春に上京しているからな。全部で2週間くらいしか書いてないんだ。日記はそのまま実家に置きっぱなしにしていたらしい」
年のはじめのほうしか日記をつけないというのは、まるで俺みたいです。へんなところで親子なんだな、と苦笑しながら眺めていますと、
“ウジ虫”
という文字が目に飛び込んできました。なんだか嫌な予感がしたので、いったん日記を閉じ、親父の顔を見ました。親父は、まんざらでもないような笑みを浮かべてこっちを見ています。
「そこには、上京する前、田舎で悶々としていたおれの“青春の苦悩”が綴られておる。いや、こんなものを書いていたなんて、それを見つけるまで、すっかり忘れていた」
俺は、もう一度日記を開いて、さきほどの箇所をおそるおそる眺めました。すると、
“馬鹿馬鹿、俺の馬鹿。このまま俺は田舎で孤独に朽ちていくのか。このままでは俺はウジ虫だ。俺はウジ虫のまま、汚れちまった悲しみを抱えながら、一生を終えようとするのか。”
俺は、そのくだりを読んだ瞬間、心の中で悲鳴を上げて日記を閉じました。父親のこんなナルシーな文章を読むのは生まれて初めてであります。顔から火が出るような思いにとらわれました。父親は、なんだもっと読まんのか、とでも言いたげな不満そうな感じでしたが、こういうナルシー系の文章を他人に読ませるには、中原中也か太宰治のような文才があって、はじめて許されるものではないでしょうか。
そして、俺が日記や詩を書くことがとても苦手な理由を、改めて確認した次第であります。
| 固定リンク
「父と暮らせば」カテゴリの記事
- 竹熊の父親動画、公開(2010.10.26)
- 健太郎、うどんが出来たぞ(2009.04.29)
- 父親の工作・そのⅡ(2009.05.26)
- ある日の父と息子の会話(2009.01.26)
- こいつら全員アホウか?(2008.10.21)




