コミックマヴォVol.5

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2009/08/26

須賀原洋行氏のご批判について(2)

須賀原氏のもうひとつのエントリ「たけくまコメントへの反論」(→★)を読むと、須賀原氏と私の一致点および相違点が、よりはっきりしてくると思います。

《既存の出版社によるマンガ出版システムは限界にきているのだろうか。
私はそうは思わない。

地球規模でのエコの問題、そして、それに伴って地球規模で産業構造が転換期を迎えていて、さらには金融資本主義で無茶をやるもんだから経済不安が加速して世界的な不況になっており、それが日本のマンガ出版界にも大きな悪影響を与えているのは確かだ。

しかし、これは紙に代わるマンガ向きの簡易な電子メディア(媒体)が生まれれば、少なくともマンガ出版界の不安は一気に解決に向かうと思う。
ちょっと前にこのブログでも書いたような、有機ELなどを使った持ち運びが簡単な電子ペーパーなどである。
A5くらいの大きさで、ペラペラの紙のようなディスプレイ。
それとiPodのような小型軽量のマンガプレーヤーを組み合わせて何百作ものマンガ作品がどこででも読めるようにする。

そうなると、既存の出版流通システムは変わるかもしれない。
取り次ぎが不要になり、既存の書店もなくなるかもしれない》 
(たけくまコメントへの反論)

この部分に異論はありません(エコうんぬんの話はともかくとして)。A5くらいの大きさで、ペラペラで紙のようなディスプレイの出現などは、久しく自分も夢想しているデバイスですし、アマゾンがアメリカで発売しているキンドルは、本に変わる電子ペーパーのデバイスとして現実に登場しています。「既存の出版流通システムは変わるかもしれない。取り次ぎが不要になり、既存の書店もなくなるのかもしれない。」というくだりも、たぶんその通りになる可能性があると思います。

つまり須賀原氏も私も、電子的デバイスの出現とネットインフラの整備によって、既存の出版システムは大変化を遂げ、今あるものの一部が不要になる。という点では、完全に一致しているのです。

須賀原氏は先の文章の後にこう続けます。

《だが、出版社があって、マンガ編集部があって、マンガ家志望者が賞に投稿や持ち込みをし、シビアな競争を勝ち抜いてデビューを果たし、プロとなったマンガ家が毎回担当編集者と打ち合わせをし、必要なら編集者が取材をしたり資料を集めたりし、編集者がマンガ家のプロットやネームをチェックして掲載に至り、ページ数がたまれば単行本に……といったマンガ作品発表のシステムは変わらないのではないか。

この部分がなくなれば、商業としての娯楽作品の質は一気に落ちるだろう。
作家は客観的視点を持ちにくくなり、描けば描くほど独り善がり性を増していく。
そのうち、自分で何を描いているのかよくわからなくなってしまう。》 
(同)

この部分も、“ほぼ”同意します。編集者と作家との切磋琢磨によって優秀な作品が生み出されていくことは、過去のマンガ史においてもそうでしたし、将来においても基本はほとんど変わらないだろうと思います。

では何が変わるのかというと、自分が「マンガ界崩壊を止めるためには」で書いたように、出版社のあり方が変わる=編集者のあり方も変わるということです。

須賀原さんもご存じではないかと思うのですが、現在、各出版社は団塊世代の大量定年退職を奇貨として、新卒社員の採用をできるだけ手控え、社員の自然減による給与の削減を図っております。このまま行けば大量にリストラを行わなければ会社の維持ができないところでしたが、定年退職ラッシュによってリストラせずに同等の効果が計れるのです。

代わりに編集の現場には、正社員ではなく外部の編集プロダクション、および多くのフリー編集者が雇われ始めています。すでに20年以上前から、外部編集プロダクションへの委託は顕著な傾向にありましたが、私の知る限り、少なくとも大手では基幹雑誌の編集を外部に「丸投げ」するようなことはなかったと思います。(中小零細ではありましたが)。今では大手版元でも、外注依存の傾向が甚だしくなっています。たとえば小学館の「IKKI」のように、社員は編集長と副編だけで、残りは全員フリーランス、という現場も出てきました。

つまり、正社員で固めた編集部とは違って、採算に合わなければ簡単に休刊が可能になるということで、このことの経営的な意味はおわかりかと思います。そのくらいどの出版社も追い詰められているわけです。いや出版に限らず、新聞・放送などマスコミ全体が追い詰められているのですが。

2011年に地デジに変わると大量のCMを打って、テレビ局は視聴者に地デジ対応テレビへの買い換えを促していますけれども、その時になったら「テレビを見なくなる」層がどれだけ現れるか、彼らは考えているのでしょうか。少なくとも自分はテレビを捨てても大丈夫です。新聞は、もう15年前から取らなくなりました。雑誌も、マンガ雑誌を含めてここ数年ほとんど買っていません。かつては、雑誌購入費だけで月に数万は使っていた自分がこうなるとは思いもよりませんでした。今年に入ってから、自分の意志で購入した雑誌は数冊程度だと思います。

テレビや新聞や雑誌がなくなっても、ネットがあるからとりあえずは大丈夫なんですが、ネットの存在を抜きにしても、ここ数年の、既存メディアにおけるコンテンツの質的低下は目を覆わんばかりです。テレビ番組はいつから、どの局を見ても同じようなメンツがつまらないジョークにゲハゲハ笑ってひな壇で手を叩くだけのものになってしまったのでしょう。今では気がついたら、テレビを見ずに過ごす日が多くなりました。部屋にあるので一応点けますが、緊急ニュースが飛び込んで来たときのためにBGM代わりに流しているだけで、特には見ていません。

テレビに比べれば、マンガはまだマシではないかと思います。マンガ雑誌が廃刊に追い込まれたり、単行本も売れなくなってマンガ家と編集者の関係がギスギスしたりしてますけど、ブックオフの売れ筋は相変わらずマンガですし、マンガ喫茶は繁盛しているのですから。

マンガは(新刊として)売れなくなったかもしれないが、読まれなくなったわけではない。

と思うのです。ということは、今なら、まだ望みはあると思います。

《確かに竹熊さんがおっしゃるように「webというまったく異質なインフラが出現した」けれども、それが「既成の出版システムの限界が露わになった」にどうしてつながるのか、私には理解できない。》 (たけくまコメントへの反論)

これは私のコメント掲示板での発言(→★)が元になっていますが、私のコメントの前段には

《たとえば須賀原さんは講談社などの大手版元も久しい以前からweb雑誌に進出していると書かれていますが、須賀原さんもお認めになられているように、採算が採れていません(小学館も同様です)。
例として上がっている講談社は、現在web雑誌からは撤退を決めているはずです。

僕は、そもそも大企業のビジネススケールにwebで採算を採ろうとすることはそぐわないと思うんですね。だからこそ「町のパン屋さんのような出版社」というエントリを書いたわけで。》

という文章があります。私の書いたポイントは「そもそも大企業のビジネススケールにwebで採算を採ろうとすることはそぐわない」という部分です。つまり、インターネットの世界は、一人の中学生が手すさびに作成したコンテンツが、大企業が大資本を投じて作ったコンテンツ以上の読み手を集めてしまうことが容易に起きる世界だということです。そこではプロやアマの区別すらほとんどありません。こういう私のコメントに対し、須賀原氏はこう書きます。

《webのみで採算がとれないのは、システムの問題ではなく、ハードの問題ではないのか。

竹熊さんの言う「町のパン屋さん」方式のマンガ家個人商店があってもいい。
増えていってもいい。
それにも電子ペーパーは役立つだろう。

だが、それは、コミケなどの大規模同人誌即売会システムの限界を露呈させることにはなるかもしれないが、既存の商業マンガ出版にはさしたる影響は与えないだろうと推測する。

マンガ家個人商店と、出版社+マンガ家では、作品のエンターテインメントとしての質が段違いだからだ。
自称プロマンガ家と、競争を勝ち抜いてデビューした本物のプロマンガ家の、どちらの作品に読者は自分の財布からお金を出すだろうか。》
(「たけくまコメントへの反論」)

須賀原さんのご批判を読んで、自分が感じるのは、伝統的な出版システムに立脚した作家と社員編集者の濃密な関係に対する強い思い入れです。

確かに過去の日本マンガ界は、作家と編集者の、時に常識を逸脱するほどの強い結びつきを「美徳」として発展してきた歴史があります。そこから多くの名作が生まれたことは事実ですし、これにノスタルジーやロマンティシズムを感じ、それを否定しようとする言説に対抗しようとする須賀原氏の気持ちはよくわかります。

ただ、時代は変わったと思うのです。もはやどの出版社にも、ポケットに辞表を忍ばせて命がけで作家を守ろうとする編集者もいなければ、作家の家に毎日通って台所で味噌汁を作ってあげる編集者もいませんし、〆切りを過ぎた巨匠の原稿を本人の目の前で免職覚悟で引きちぎる編集者もいないのです。

須賀原さんがしきりと強調する「プロ」は、もちろん優れているのでしょうが、作家と編集が命がけで作り上げた歴史的名作も「プロ」の仕事なら、描くことがなくなってストーリーが崩壊しても、「人気」を理由に何十巻も間延びした作品を出し続けることだって「プロ」の仕事であります。

「プロ」は、私の理解では「その分野を仕事にして生活する人」のことであって、それ以上でも以下でもないと考えます。プロのマンガ家は、マンガを描いてそれで生活できているからプロなわけですが、それならお百姓さんも魚屋さんも、なんらかの職業に就いて生活する人間は全員がプロなわけです。プロであること自体が自慢になるわけではありません。

プロが、自分がプロであることを誇れる場合とは、たとえばリトルリーグの練習にプロ野球選手が訪れて、指導に当たるような局面でしょう。その場合プロを目指すアマチュア選手の側が「やっぱりプロは違う」と憧れの目で仰ぎ見ればいいのであって、それ以外の局面、たとえば立派にそれぞれの道で自活している一般人に対して、「俺はプロだ」と胸を張る「プロ」がいたとすれば、それは滑稽な事態だと思います。

何度も書きますが、私は「プロ編集者とプロマンガ家の切磋琢磨によるマンガ作り」が、消滅するとは思いません。ただ須賀原さんがおっしゃるような「出版社の社員編集者と、マンガ家」の関係ではなく、いずれは「フリーのマンガ・プロデューサーと、マンガ家」の関係に置き換わって行くのではないかと予想しているのです。

社員がフリーに変わるだけで、それで生活する以上、どちらも「プロ」に違いはないのです。ただ編集者には、今後自分を守ってくれる組織の後ろ盾がないぶん、厳しい時代になるとは思いますが、昔から「作家」はそうして生活していたわけです。

作家は、人気が落ちれば仕事を打ち切られたり、なんの生活保障もないわけなんですが、ハイリスクの代償としてハイリターンを得ることが許されています。なんでもそうですけれども、ハイリスク・ハイリターンはフリーランスの基本であります。ということは、今後はフリー編集者はどんどん「作家化」してくるのではないかと思います。別に自分で直接原稿を描くということではありませんが、積極的にマスコミに出て自分の名前を売ったり、自分が担当した作品の売り上げに応じた印税をもらったりする人も出てくるでしょう(もう出ていますが)。

自分はコメント掲示板で、「これからのマンガ界(出版界)は、往年の日本映画界のような方向に向かうのではないか」と書きました。

http://www2.atchs.jp/test/read.cgi/takekumamemo/136/719-719

実は僕もまだ考えが整理しきれてないんですけど、60年代の貸本マンガ界、70年代の日本映画界に起こったようなことが、これからの出版界(マンガ界を含む)に起こると思うんですよ。貸本マンガ界は70年代を待たずして「消滅」しましたけど、映画界は残りましたね。この映画界の生き残り方に近いことが出版界に起こると思うんです。

映画産業がテレビに押されて斜陽になったとき、映画会社はどうしたかというと、それまで「正社員」として抱えていたスター俳優や映画監督を独立させて各自のプロダクションを作らせました。つまりそれまで映画会社が一手に引き受けていたリスクを分散させて、会社としての生き残りを図ったわけですね。

現在、マンガ編集の現場が社員編集からフリー編集中心のそれへと大きく変わってきていることは事実としてあります。ここ1~2年の傾向として、出版社は大手・中小を問わず新卒採用を手控えているので、どうしてもそうなるわけです。

ここから考えると、日本映画界が60年代後半から70年代いっぱいにかけてやってきたことと、非常に重なって見えてくるわけなんです。映画産業は、もちろん残りましたけれども、ライバルだったテレビ局のお金にすがって生きているのが実情ですよね。

たぶんそれと似たようなこと(メジャー出版社が、ネットや同人界にすがって生き残るようになる)がこれから起こると思うんです。そういう形以外で、マンガ出版の生き残る道はないのではないか…少なくとも僕にはそう見えます。

50年代の日本映画はまさに黄金時代で、黒澤や溝口などが世界の映画祭でグランプリを獲得し、観客動員も1958年にのべ11億人を超えるなど、質・量ともに最盛期を誇っていました。

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=日本映画&oldid=27579402

それが、60年代に入るやテレビに押されて観客はみるみる減り始め、70年代には観客動員は全盛期の10分の1にまで減少してしまったのです。

そこで、上のコメントで書いたように、映画界は「正社員」だった俳優や監督をフリー化し、スタジオの裏方さんもすべて外注化して、会社を極限までスリム化して生き残りを計ったわけです。

それは、全盛期から見れば「映画産業の崩壊」と呼べるほどの事態でしたが、それは一種の独占的な「コンツェルン(的状態)の崩壊」であって、映画自体は小規模ながらも残りましたし、スタッフもクリエイターも、フリーとして残ったわけです。

自分が「マンガ界の崩壊」と書くのは、こういう意味からです。映画界はかつて大手五社(東宝・東映・松竹・大映・日活)によって事実上支配される独占的な世界で、俳優もスタッフもいずれかの会社に所属しなければ仕事にありつけませんでしたが、テレビという黒船の出現で一度崩壊し、違うシステムを模索して生き残りを計りました。

マンガ(出版)界も、インターネットという黒船の出現によって、おそらく似たようなことが起こるでしょう。ただし誤解のないよう申し添えておけば、これは即、マンガや書物の消滅を意味するわけではないということです。

マンガ界は崩壊しても、マンガは残ります。

崩壊する出版界にしても、編集者をフリー化して編集はすべて外部化したうえで、製作流通の窓口管理組織としての生き残りを図るでしょう。形を変えて再生はすると思います。

須賀原さんへの反論を書いているはずが、今夜、大阪難波で話すトークのレジュメみたいな内容になってしまいました。イベントの内容については、後日改めて発表するつもりです。

http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-e2aa.html
↑たけくまメモ「告知・大阪難波でトークライブ」

須賀原さんは、間違いなくマンガを愛しておられるのだと思います。それは私も同様なのですが、須賀原さんの場合、「マンガ愛」と「業界愛」がゴッチャに混ざり合っている印象を受けるのですよ。意図的にか無意識にか、そこをはっきり区別されていないのだと思います。

自分の場合は、マンガが生き残るためにも、「マンガ業界」はいったん崩壊するしかないのではないかと考えています。昨年は「マンガ界崩壊を止めるためには」というエントリを書いた私ですけれども、ますます深刻化する現状を見るに、崩壊は、おそらく止められないでしょう。

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