コミックマヴォVol.5

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2009/11/13

マンガと大学教育(2)「メディアという育成機関」

※今回紹介する原稿は「ちくま」2009年1月号に掲載された「メディアという育成機関」である。前回の原稿では、次回マンガ工学部の実際について書くと予告してあったのだが、早くも話が横道に逸れてしまっている。これは3ヶ月に一回というリレー連載で、間が空いているうちに自分やマンガ界をとりまく状況が急激に変わっていることもある。まとまった論考としては失格かもしれないが、なぜこういう原稿になったのかの言い訳を、最後に書き下ろしで触れるつもりだ。

●メディアという育成機関

 私は前回、「次回は“マンガ工学部”とはどういうものかについて書きたい」と予告してしまったが、その前に、大学でマンガを教えることについてもう少し書くべきことがあると気がついた。それは出版産業全体の中で、大学のマンガ教育はどう位置づけられるかについての議論である。

 マンガ教育を「実作者養成」の見地からとらえたとき、学生が卒業後に身を置くことになる出版界の存在を前提にせざるをえない。ところが盤石だと思われていたマンガ出版の産業構造に、近年、大変動が起こっている。

 一言で書くなら、マンガ(雑誌・単行本)が売れなくなってきたということである。いやブックオフに代表される新古書店や、マンガ喫茶は相変わらず隆盛であり、マンガ全体のニーズが落ちているとは私には思えない。おそらくマンガは以前と変わらずに読まれているのだが、「マンガを新刊で購入する」という消費者行動に、大きな変化が生まれているのである。

 消費行動の変質は、当然、マンガの産業構造に変化をもたらすことになる。これはマンガだけに限らないが、売れる作品と売れない作品の格差が、かつてないほど増大している。このため売れるマンガの長期連載傾向がますます強くなり、反面実験的な作品は掲載されづらくなる。人気が安定しない新人作家の「使い捨て」構造が激しくなっていることも問題である。こうした時代の変化は、当然大学でのマンガ教育に対しても影響を及ぼしてくる。

 これを書いている現在、私のブログ「たけくまメモ」で、マンガ雑誌(商業誌)の現状に関する話題が展開している。「マンガ雑誌に『元をとる』という発想はない」(11月20付)と「オンライン(無料)マンガ誌、花盛り」(11月23日付)の二本のエントリを私は発表し、コメント欄の議論が現在進行形で続いている。

http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-442f.html
↑マンガ雑誌に「元をとる」という発想はない
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-41f7.html
↑オンライン(無料)マンガ誌、花盛り

 ふたつのエントリを要約してみる。まず、マンガ雑誌の中には原価率400%という一般の産業常識では考えられない高コストの媒体が存在するなど、赤字で出されることが普通である。理由として版元はマンガ雑誌を「連載による原稿のプール機能」と「作品宣伝」の役割だととらえているので、最初から雑誌で利益をあげるという考えがない。むしろ「雑誌は読者からお金がいただける宣伝媒体」だととらえれば、非常に安上がりな広告であるとすらいえる。

 では版元は何で利益を出すのかといえば、連載をまとめたコミックス(単行本)である。コミックスこそはマンガ産業の屋台骨であり、マンガ雑誌の赤を補って余りある存在だった。

 ところがここに来て「コミックスまで売れなくなっている」ことで、業界全体に暗雲が垂れ込めている。赤字が常識のマンガ誌であっても、大手でも休刊に追い込まれる雑誌が出てきたが、これはコミックスが売れなくなったので、雑誌の維持が困難になってきたということである。

 雑誌がなくなることは「新刊コミックスが出せなくなる」ことを意味する。描き下ろしで新刊を出すことは、マンガの場合ほとんどない(小説と違ってアシスタント代などのコストがかかるので、作家が嫌がるからだ)。こうなると、原稿プール機能が消滅する。旧作の復刻なら可能だが、一番利益があがる新刊コミックスが出なければ、マンガ出版は立ちゆかない。そこで最近、各社が取り組みはじめているのが「WEBマンガ雑誌」だ。

 最近講談社「モーニング・ツー」が1号前の誌面すべてを無料公開し始めて話題になった。それ以外にも双葉社の「WEB漫画アクション」や、スクエアエニックスの「ガンガンONLINE」など、無料、ないし制限付き無料で連載マンガをインターネット公開する例が増えてきた。掲載している作品には、すべて原稿料が作家に支払われていると聞く。それでも紙の雑誌を出すより、はるかに安上がりなのである。

 各社ともまだ実験段階だが、これはマンガ雑誌が将来、紙媒体からインターネット(またはケータイ)に移行する布石ではないかと私は考えている。もともと赤字のマンガ雑誌であるから、そこから単行本ビジネスに繋がるのであれば、ネットで無料公開しても問題ないということなのだろう。

 現在マンガ界で起こっていることは、高コストな紙媒体の雑誌機能をなんとか低コストなインターネットに移行できないかという模索なのである(以上が、私がブログで展開している論旨である)。

 以下はブログの議論を土台にして、このような時代にあって、大学でマンガを教えることがどのような意味を持っているのかを考えてみたい。

 マンガ雑誌には、ここまで書いていなかったもうひとつの重要な機能がある。「新人の発掘と育成」がそれだ。マンガ雑誌が消滅して何が問題かというと、新人がデビューする場がなくなるということである。もちろん現在はインターネットや同人誌即売会が発達しているので、新人は出版社に持ち込むより、まずWEBや同人誌で作品を発表して、それを見た版元にスカウトされるというデビュー形態が現実に増えていることは確かである。

 しかし版元としては、本音では、できることなら新人には会社まで持ち込みに来てもらい、版元の編集者がコントロールしつつ育てたいと考えているのではないかと思う。ネットや同人誌で自作を発表している優秀な新人作家には、絶対に同業他社も目をつけているに違いないからだ。

 この新人発掘も、近年はネットで行う試みが出ている。小学館集英社プロダクションは、この8月から「ドリーム・トライブ」というマンガ投稿サイトを開始した。これは従来各雑誌が行っていた新人マンガ家の投稿や持ち込みの対応を、特定の雑誌に拘らずにネットで募集しようというものである。これも従来はマンガ雑誌の役割だった新人発掘機能を、ネットに求める動きだと思われる。

http://www.dreamtribe.jp/
↑ドリーム・トライブ

 というところで、ようやく大学の話になる。

 マンガを純粋に学問の対象とした「歴史・理論教育としてのマンガ学」については、ひとまず横に置く。私にとって興味の中心であり、今後教育の現場でやろうと考えているのは「実作教育」になるのだが、これはまだ試行錯誤の段階である。これまでの連載で森川氏や伊藤氏、私が何度か触れたように、「大学でマンガが教えられるのか」と疑問視する声を一般社会やマンガ業界の人間から聞くことが多いのも、過去の有名マンガ家の多くが大学に行っていなかったり(つげ義春は小学校しか出ていない)、大学のマンガ学科から未だにこれといった有名作家が出現していないことによるものだと思う。

 大学のマンガ教育は遡っても十年に満たない歴史しかない。有名作家が出ていないことをもって有効性を疑問視するのは、時期尚早であると思う。しかし有名作家に限定しなくとも、私自身、マンガ学科出身のプロ作家が少ないことには疑問を持っていた。

 最近もあるマンガ誌の編集者から、遠回しにではあったが、「大学で作家を育てることってできるの?」と大学のマンガ教育への疑問を呈された。どう返答すべきか考えているうちに、気がついたことがあった。私は、そのとき逆に、「どうして彼ら(マンガ誌編集者)は、自分に作家が“育てられる”と思えるのだろう」と考えたのである。答えはあっさり出た。彼らは「メディアを持っている」のだ。

 出版社の編集者は、持ち込みの新人に応対し、批評を加え、商業レベルに達したと判断した作品を雑誌に掲載する。原稿料を支払い、ページがまとまれば単行本にする。本を流通に流し、印税を支払うところまでが編集者(出版社)の役割である。

 プロ編集者が「作家を育てる」と言える自信の源は、「メディア(と流通手段)を持ち、金銭の支払いまで行う」ところから来ているのだ。編集者は、新人の作品を「商品」として見て、売り物になると思えるまで何度でもダメ出しをする。批評も観念的な精神論ではなく、「このコマの絵は、もっとキャラの顔を大きくして左向きにした方が見やすくなる」などと、常に具体的である。絵に対する注文だけでなく台詞、ストーリーに至るまで、作品を徹底的に磨き抜く。時には作者自身気づいていないような美点を見つけて褒めたりする。

 そして雑誌に掲載することで、新人作家は他の作品と比べたときの自作の水準を知ることができる。一般読者の視線に晒されることで、初めて作者は「商品としてのマンガ」への認識を深めることができる。以上が一般的な編集者の「作家を育てる」プロセスである。

 ここまで考えると、大学の実作教育に「足りないところ」が見えて来るのではないだろうか。

 一般に大学とは知識や技術を教える場所であり、おそらくそのことに関しては、出版社などより遙かに上等であろう。マンガ家ではない編集者には、作画指導は限界があるが、大学ではベテランマンガ家を講師に招いているので、編集者には指導が不可能な高度な表現技術を学ぶことができる。歴史や理論などの知識面についても、大学のお家芸であるといえる。しかしそれらは、どこまで行っても知識であり技術でしかない。そういうものをいくら覚えたところで「面白い作品が描けるわけではない」という批判は、もっともである。

 となれば、マンガ学科・学部を持つ大学も「自前のメディア」を持って、広く社会に学生作品を公開する必要があるのではないだろうか。大学のウェブサイトに作品を載せたり、年に一冊、学生作品を出版する大学はいくつかあるが、実際に世間の話題にまで持って行くためには、年鑑のようなメディアではどの程度実効性があるのか疑問である。ウェブ・紙媒体を問わず自前で影響力のある定期メディアを持ち、適切な編集を加えて優秀な学生を「売り出す」積極性が欲しいところである。

 現状では、年鑑レベルの作品集以外、新人作家の「売り出し」まで大学が行っている事例はない。大学は学生から学費をいただき、知識と技術を教えるだけの役割で、あとは社会に出た学生が自己責任で出版社に持ち込んで、勝手にデビューしてください、という態度である。これではいつまで経っても「大学で面白いマンガが描けるんですか」と言われるだけではないだろうか。

 今、商業マンガ出版は、私の知る限り、戦後最大の危機にある。まだ決定的な破局が来ているわけではないが、このまま手をこまねいていると、衰退していくことは明らかだ。出版界にこの事態を改善する能力があるとは私には思えない。年々逼迫する経営の中で新人をじっくり「育てる」余裕など、今の業界にあるのだろうか。

 こうした中で、「新人発掘・育成・売り出し」を大学が手がけることには、大きな可能性があるのではないかと思う。(2009年1月「ちくま」)

◎つづく→★
◎その1へ→★

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コメント

 メディアを持っているから育成能力があるって出版側の見解も、結構無理があるんですけどね。人に見られることを想定して立ち位置なり表情なりを工夫するって意味では、ファッションモデルが舞台に立つことで段々綺麗に成っていくって論法にも近いんですけど、それと「野に咲く花は野に在るように」とは、また別個だったりしますしね。どこぞの山に登って路傍の花に心ときめかす部分って、舞台志向とは違いますやん。微妙に。

 いわゆる新人発掘や育成の部分ってのは、行く末舞台に立つことをも想定に入れた教育法で花開くことも当然あるので出版的な見解も間違っちゃいませんけど、基本は「野に咲く花の小さな美しさ」をそのまま愛でることにあるというか。そんな感じじゃないかな? と思いますけどね。

 そういう部分は、学校の教育では中々得られんものですよ。学校の教育が不必要化というとそんなことも無いんですけど。按配が難しいところです。

 パンは野に咲かないけど、花は野に咲くでしょ。その差かなぁ? という気が、しますね。

投稿: 渡辺裕 | 2009/11/13 08:20

>基本は「野に咲く花の小さな美しさ」をそのまま愛でることにあるというか

それはマニアな読み手の嗜好だろーが。「商品」と「作品」を兼ねたブツを描ける描き手をどう育てるかって話だよ。

投稿: じゅうく | 2009/11/13 08:46

根本的には仕事だから金や生活がかかっているからこそ
容赦なく相手の心をゴリゴリ削り磨いてく事が可能だからというのは無いのでしょうか?

学校って実は生徒がお客さんなショービジネスな訳で、お客にゴリゴリやっていくのは難しいでしょ。

投稿: 1026 | 2009/11/13 12:00

日本では物語重視だけど ハリウッドみたいに学校では脚本の書き方を教えているのかな?

学校と社会の要請で最も違うのは 人々の欲望(需要)に応える という事かな
漫画に限らず 売れている製品はすべて 一見そうは見えなくとも
不安にしろ期待にしろ 欲望を喚起していると思う

学校と出版社で最も違うのはこのドロドロした所と思う
それを学校で教えるのは俗っぽくて 勇気がいる事かもしれない

でもそれこそが売れるのに最も重要な用件だと思う
作者の創作の志向も もてるウデも 総て人々の欲望に応える為に
使役されるべきだ もし売れたければね

サラサラな学校がドロドロの需要に応えられるか? そのハードルは案外と先生方の
心の中にあると思う 先生にいくらウケても 社会で売れなければ仕方がない
学校に行くメリットはない 卒業しても食えないんだもの


このコメント欄 メルアドと名前がいるからちょっと煩雑で
コメント数減るでしょうね
活発な議論の障壁になるかもしれません

投稿: キキブーバ | 2009/11/13 12:09

「マンガ家を育成する必然」はわかったんですが、「専門学校ではなく大学でマンガ家を育成する理由」な話をもう少し聞きたいです。

投稿: たけたけ | 2009/11/14 06:28

はじめまして。いつも楽しく拝見させて頂いております。

今回の記事でふと好奇心が沸いたのが、大学ではたけくま先生のような分野の教授職ではどのような業績評価が行われているのか、という事なのですが、
これは年々変わり行くものだとは思いますが、現状やたけくま先生の展望等をお知らせ頂ければ幸いです。

投稿: 冗長ゾンビ | 2009/11/14 07:57

僕は教授になってまだ8ヶ月に満たないので、業績評価
というものがどういうものかよくわかっていません。
ただ少なくとも、一般の大学教員のように紀要に論文を
発表したり、学会で発表して、それが評価に結びつく
ことはないと思います。

投稿: たけくま | 2009/11/14 19:28

早速の御返事ありがとうございます。たけくま先生のお話を読んでいると学生さん(=新人作家さん)が大学や専門家の世界の中だけでしか評価を得ないのは良くないと思えて来ますが、指導する立場の人もまた同様かもしれませんね。その辺も含めて今現在の大学やたけくま先生のおっしゃるところのマンガ工学部のあり方の未知数が多くて面白いですね。

投稿: 冗長ゾンビ | 2009/11/15 05:50

ぼくの勤める専門学校では、アート系の増殖が
終ってしまったので、学生は「お客さま」として
扱えと(書類で)通達を出しています。

べつに、学校は「マンガ家にねれる!」とは
宣伝していません。

ぼくが思うには2000人に一人ってカンジでしか
プロにはなれない「投稿界」。
現在はこれを、かなりハードルを下げているようですが
ところが、「発表できる」雑誌の現象が急激になった。

きびしい職業世界ですよね。
小生の関係する専門学校は、知的れレベルを完全に無視。
これを「育てよ!!!」って、その困難さは、想像以上。

京都精華の実績は、どうなんでしょう?
かなりの陣容を誇っていて、
我々の何倍もの「教育環境」が整っています。

これで、プロの輩出数が少ないとしたら~?
教授陣が悪い???!!

ぼくには、そうは思えない。
芸術~ってやつは「資格認定」ってやつが
不可能に近いと思う。

部外からの「批判」「疑念」などは
誰でも言えるが、言ってみたからって
必ず「改善」されるか?というと
そう、簡単なものじゃないように
思えますね。

投稿: 長谷邦夫 | 2009/11/15 21:19

以前のエントリのトラバを追っていって、
「出版が沈みゆく大陸だとすれば、ネットへの移行は島へ泳ぎつくようなものでキャパは足りぬ。
それでも準備をしない訳にもいかない」という喩えをしたブログに行き当たって上手い事言うと思った訳ですが。

大学というのも避難先の島の一つだとは思うのですが、そこで何ができるのか?その土地の特性については初めから見極めとく必要があるかと思うのです。


投稿: けおら | 2009/11/15 22:22

>>「新人発掘・育成・売り出し」

 吉本のお笑い学校をある程度参考にしたら宜しいんでは? 私は吉本学校出身者のお笑いを面白いと思ったこと無いからどうでもいいっちゃどうでもいいですけど。

投稿: 渡辺裕 | 2009/11/16 00:01

桐朋学園は
音楽教室の学生の進学先がないから受け入れ先になって、と頼まれれば音大と音高を作ってしまったし
俳優座養成所から「役者になれなくてもせめて短大卒の資格を持たせてやりたい」と頼まれれば短大を作ってしまった

という例があるからこう考えてしまうのですが

漫画で食べていけなくてもとりあえず大卒で学位があれば就職時に多少は役に立つ。

もちろん其れが本来の目的じゃないに決まってるんですが、卒業生すべてが漫画家やその周辺の仕事につけるはずがない現状では、それもひとつの成果なのではとか思ったりします。
今やとりあえず大卒だけではどうにもならない状況かもしれませんが。
なんであれ学位はないよりあるに越したことはないと思ってしまうのです。

長谷先生の書いておられるように、資格認定が不可能に近い芸術の分野でありますから。

すみません。支離滅裂に。

投稿: 永田電磁郎 | 2009/11/16 01:07

「メディアの変化に併せてマンガはどう変わるんだろう?」でなく
「今後の発表の場の確保や、育成方針はどうすればいいんだろう?」
という事がお話のメインテーマだとすると、他の芸術や芸能(歌舞伎でも相撲
でも美術でも)での取り組みの歴史は近い部分がありそうですね。

時勢の変化で、生活の糧や発表の場となるパトロンやメディアを失って
しまう(放映権の争奪や出版の衰退や芝居小屋や劇場の閉鎖等)とか、
出資者や親方との確執、新人の発掘育成の模索とか(設立経緯は逆だけど
吉本NSCと歌舞伎俳優研修生とか)。
ゲーム専門学校や、昔のOSK歌劇団や新日本プロレス学校とかのことも
少し連想してしまいましたが、本質的には任天堂の山内博氏が言った
「必要不可欠ではない」娯楽産業が持つ普遍的な苦労なのかもしれませんね。

ただ漫画の一読者の意見でいうと「既存の出版メディアからネットへ」
という方向性だけだと、それは大資本でも市井の人も条件同じだし…
伊勢田監督とかオナニーマスター黒沢みたいに、そういう系統とは別に
差別化された良さを伸ばすとなると、教育や伝統芸能化することは
規格化するという面もあるので、そういう味を消しちゃう危惧もある
ように思えます。「商業ルートで出ないような規格から外れたものが見たい」
という欲望とは相反する方向というか…。
でも生活がある作り手に狂人になることを強制するのも酷な気もしますし…。

PS : 他の方のお話を拝読していて思いましたが長文になると
コメント欄よりも以前の掲示板の方が読みやすいかも…。

投稿: Fire_Fly | 2009/11/16 01:18

>Fire_Flyさん

こういうコメント欄の掲示板システムには、なかなか
「これ」といった決め手がありませんね。以前の
2ちゃん型掲示板は、レス番号が付くしエントリから
独立していたので、おっしゃる通り長文での議論に
向いていたと思います。
反面、2ちゃん特有の書き込みも増えて、それが
ノイズと感じる人も多かったと思います。

難しいところですが、しばらくこのまま続けてみようか
と思います。

投稿: たけくま | 2009/11/16 14:59

>たけくまさん
レスありがとうございます。
ノイズと有意義な意見の境界も難しいですし
それぞれ一長一短の部分がありそうですね…。

投稿: Fire_Fly | 2009/11/17 00:40

>長谷邦夫さん
>ぼくの勤める専門学校では、アート系の増殖が
>終ってしまったので、学生は「お客さま」として
>扱えと(書類で)通達を出しています。


というお話の部分の状況がイマイチ良く分りません。
すみませんが、もう少し私のような門外漢にも分りやすく
説明してもらえませんでしょうか。
“増殖”していたのは、志望者のことですか?
それともアート系の業界規模ですか?
よろしくお願いします。

投稿: 門外漢 | 2009/11/19 16:01

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