マンガと大学教育(3)「マンガ編集者」は育てうるか?
※今回は「ちくま」にリレー連載した「オタク文化の現在」の、竹熊が担当した最終回を掲載する。当初「マンガ工学部構想」を書く予定が、完全に違う内容の原稿になってしまった。本文中でもそのことに触れているが、執筆当時の私を取り巻く状況の変化が激しく、こうなってしまったところがある。このエントリの最後に、書き下ろしで現在の見解を書くつもりだが、そこで改めて連載時と現在の私を取り巻く状況を総括する予定である。「マンガと大学教育(4)については後日アップするつもりだ。
●「マンガ編集者」は育てうるか?
森川・伊藤・竹熊によるリレー連載も、今回が最終回となる。この連載は「オタク文化の現在」と題されているように、三人それぞれの立場からとらえた「オタク・カルチャー」の動きをレポートすることが開始時の意図であった。ところがテーマが「大学でのマンガ教育」に絞られた途端、連載は思わぬ展開となり、活気を帯びることとなった。
私について言えば、この1年というもの、自分を取り巻く環境が目まぐるしく変化している。「激動」といってもいい。そのため当初私が書こうとしていたテーマからは、かなりの軌道修正を余儀なくされている。
具体的には、私は当初、この連載で「マンガの実作教育」についてのプランを書くつもりであった。そこで私は、最初は当然のように「マンガ家としての実作教育」に焦点を当てていた。
書くつもりだったプランは、何度か予告した通り「マンガ工学部」の構想である。マンガ出版の現場で、商品性のあるマンガを「生産」するうえでのノウハウを集積し、メソッドとして理論化・体系化することがまずひとつ。そして、これからの時代に適応した新しいマンガ(たとえば電子デバイスで読むことを想定したデジタルマンガ)を模索し、その研究を行いつつ、開発したノウハウをマンガ制作の現場にフィードバックする。
その際私の脳裡にあったのは、1930年代のディズニー・プロダクションであった。ウォルト・ディズニーは、大作『白雪姫』(1937)を実現するにあたり、34年頃から社内にアニメーション研究のための「学校」を作った。ここでアニメーターを養成するとともに、マルチプレーン・カメラのような画期的な撮影装置まで開発した。
「ディズニー学校」を維持するため、ウォルトは『ミッキーマウス』での莫大な収益の大半を注ぎ込んだと言われる。その成果が、『白雪姫』『ピノキオ』『ファンタジア』など、今となっては同じ手法では製作不可能と言われる初期の大作群である。
「ディズニー学校」で行われていたことは、実は学校と言うより、薬品会社や家電メーカーなど製造業における「研究部門」「基礎開発室」にあたる作業だった。ディズニーが世界のアニメーション業界の覇者となった背景には、アニメーションを「産業」としてとらえ、適切な投資と人材育成によって商品としてのクオリティを上げ、共同作業によるアニメーション製作のノウハウを確立するための研究開発を怠らなかったからである。
基礎研究に相当する作業は、私の知る限り、「出版社レベル」ではまず行われていない。もちろん、現場の作家・編集者は作品の「企画開発」を個人的営為として行ってはいるが、組織的になされているものではないので、ノウハウをメソッド化したうえで広く他に伝える努力が行われているわけではない。
「マンガ産業」の生産効率化を図り、未来のマンガを「開発」することが出版社にはできないのであれば、大学が代わりにやるべきではないかというのが私の主張である。
ところで、精華大で私が所属することになったのは「マンガプロデュース学科」というセクションで、これは今のところ精華大にしかない学科である。プロデュースという言葉からもわかる通り、この学科では「マンガ編集者」を養成することが本来の目的となる。つまり私自身、「マンガ家教育」から「マンガ編集者教育」へと方向を変える必要が出てきたのだ。
しかし、これは「マンガ家」を養成すること以上に難しい。学生に教えるには「編集」という仕事はあまりにもとらえどころがない。一般に「編集者」という存在が、作家から原稿をいただいて印刷所に入稿する以外、何をする仕事なのかがあまり知られていないうえに、マンガ編集者と通常の雑誌編集者との仕事の違いを言葉できちんと説明できる人は、プロの編集者でも少ない。実際には大違いで、たとえば活字雑誌のキャリアしかない編集者の場合、急にマンガ編集部に異動したら、それまでのノウハウがほとんど通用せず、途方に暮れるはずである。
マンガ出版の現場では、マンガ編集の仕事は実際にマンガ編集部に配属されて、現場の仕事を通じて数年かけて「体得」するものだとされているのだ。
大学側から「マンガ・プロデュース学科で講座を持ってくれ」と要請されたときは、えらいことになったと頭を抱えた。「マンガの描き方」なら多くのノウハウが存在するが、「マンガ編集のやり方」なんて本は存在しないからである。外山滋比古の『エディターシップ』のような「編集論」はいくつかあるのだが、いずれも一般的な書籍編集について書かれた本で、マンガ編集に関する実際は、現場で実際の仕事の中で覚えるしかないのだ。
実際のマンガプロデュース科でどのような講義を行っているのかを聞いてみても、編集の仕事についての概論を行うほか、シナリオ(原作)の講座を行ったり、マンガ史やマンガ批評に関する講座があると同時に、「作家希望」の学生のためにマンガ実作の授業も行うなど、「なんでもあり」の感がある。正直、まだ学科としての方針が固まっているとは言えないようだ。問題は「編集者教育のメソッド」が確立していないことにあると思う。
まず99パーセントのマンガ家は、学生時代にマンガ家を志して、そのための訓練をスタートする。しかし学生時代から「編集者になりたい」と思って勉強を始める人間は非常に少ない。ほとんどの人間は、まず出版社へ就職し、そこで初めて編集者教育がスタートするのである。
ただし私個人についていえば、「マンガプロデュース学科」で教えることになったのはラッキーだったと思う。私は元来、フリーの雑誌編集者としてキャリアをスタートした人間で、以降も社員編集としてマンガに関わった経験はゼロなのだが、それだけに、あくまでフリーランスの立場として、編集およびマンガ編集については考察を続けていた。
ライターや原作者としても、自分はかなり編集寄りの視点で歩んで来たつもりである。今後のマンガ作りに関しても、「編集者」として、自分なりに試したいアイデアが山ほどある。これまでは一介のフリーランスの立場だったので、アイデアはあってもそれを実現させる道筋がなかなか見えなかった。一口に編集者といっても、版元の社員編集とフリーとでは、権限に雲泥の差があるからだ。しかし大学の教員という立場なら、できることがいくつかあるように思う。私は今、大学教員になったことで、「ようやく自分の考える編集者ができそうな気がする」と答えている。
さて実際のプロデュース学科では「マンガ原作教育」が大きな柱になっている。これは専業のマンガ原作者を養成するという意味があるだけではない。マンガのテーマやストーリーを考えることが、マンガ編集者の「仕事の一部」でもあるからである。
もちろん編集者が、すべてのマンガのアイデアやストーリーを考えているわけではない。全体としては、絵とストーリーの双方を個人で手がけるマンガ家の方が多いと思う。しかし、これは業界内でも声高に言われることではないが、マンガ家の個人名で発表されている作品であっても、実際は編集者やブレーンとの共同作業でストーリーが作られているケースは少なくないのだ。
いわゆる「原作(シナリオ)」まで編集者が担当するケースはさすがに少数だと思う。しかしネタ出し・プロット・ネームに至るまで、作家と編集者が討議しながら二人三脚で行うことは、現場ではむしろ常態である。そうしなければ、週刊誌での連載はおぼつかなくなってしまうからである。
先程から何度も書いている「マンガ編集の特殊性」には、「マンガ編集者にはシナリオ作家としての才能も要求される」ということもあるのだ。すべてのマンガ編集がそうだというわけではないが、私の知る範囲では、優秀なマンガ編集者は原作者として優秀なことが多い。
もちろん現実のマンガ編集では編集者の作品への関わりは千差万別であって、たとえば物語作家として定評があり、演出力のあるベテランマンガ家と組む場合は、マンガ家の原稿をいただいて入稿するだけというケースもなくはないが、多くの場合は編集者は作家と一緒にアイデアや物語を考える「ストーリーアシスタント」のような仕事をすることが珍しくないのである。
これが新人作家の場合になると、編集者が原作者となってネーム(絵コンテ)まで主導するケースもある。つまり通常の編集に比べれば、マンガ編集者ははるかに「作家性」が要求される仕事であると言える。
私が「マンガ原作」を一番やっていたのは90年代で、2000年代以降はほとんどやっていないのだが、理由としては「マンガ原作」という仕事に疑問を感じたことがある。つまりシナリオ形式の原作の場合、原作者の仕事は文字原稿を編集に渡すところで終わってしまう。あとは編集とマンガ家が打ち合わせてマンガを作るのだが、そこに原作者が介在する余地はなく、ネーム段階で台詞やシナリオが変わってもそれを知るのは本が出てからで、「後の祭り」である。最終的なマンガ原稿に関われないことが、自分には非常なストレスになり、結局「シナリオライターとしてのマンガ原作者」は辞めてしまった。
私の場合「ネーム」にまで関わらなければ,自分の考える原作にはならないのだが、実はこれ(私の考える原作者)は、マンガ編集者の仕事そのものである。マンガ編集者は、まず作家とプロットを打ち合わせし、作家が切ったネームにアドバイスを加えて決定ネームを作るわけで、作品の成立に決定的な役割を果たしている。(※註:原作者がネームにまで関わろうとする場合、私がそうであったように90年代までは編集者も兼ねない限りはネームに関わることができなかった。最近は『デスノート』の成功によりネーム原作が注目され、少年誌の現場ではそれが普通になっていると聞く)
したがって優秀なマンガ編集者であるほど「作家的性格」を帯びてくるので、サラリーマンの立場とは齟齬が出てくる。近年活躍しているマンガ原作者の樹林伸氏や長崎尚志氏は、それぞれ講談社・小学館のベテラン編集者であるが、いずれも担当作家のストーリー作りに日常的に関わっていくことで、サラリーマンを辞めて原作者として独立したケースだ。
編集者が原作者として独立した場合、その仕事は編集の延長にあることが多い。いわゆる「マンガ・プロデューサー」として活動するわけである。樹林氏・長崎氏は、作家の発掘と売り込み、原作、出版のすべての課程に関わるので、まさにプロデューサーである。彼らはベテラン社員編集であっただけに、産業としてのマンガを知り尽くしており、作家と出版社の間に立ったエージェントになり、作品のメディアミックスを含めた商品展開にも「作品の権利者」として主体的に関わることが可能となる。
こうした社員編集でも原作者でもないマンガ・プロデューサーの存在は、今後のマンガ産業の要となるはずである。その存在とノウハウを理論化し、職業としての可能性を探ることは、私の大学での仕事になるのではないかと考えているのである。
現実問題として、商業マンガは編集者・原作者・アシスタントの存在を抜きにして語ることはできない。そうしたチームワークによってマンガは出版されているにも関わらず、個人名だけで作品が出されていたこれまでの状態は、いささか問題があったと思う。
それはつまり、名前を出す個人(作家)が作品のリスクをすべて負うということだからだ。ヒットすれば作家は億万長者になれるかもしれないが、人気が出ずに作品が打ち切られたときの保証は何もない。作家のリスクが大きすぎる現状は変わってしかるべきで、その際、リスクを負う独立マンガ・プロデューサーの存在は大きなものとなるはずである。
と、いうところで、私の連載分はここで終えることになるが、これからの体験で「書くべきこと」はいくらでも出てくると思う。それついては、今しばらく経験を積みつつ、機会を見つけて書くことにしたい。 (「ちくま」2009年4月号)
◎つづく→★
◎その1へ→★
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コメント
>ノウハウをメソッド化したうえで広く他に伝える努力が行われているわけではない。
かつて生業にしていたビジネス用コンピューター・システム(ソフトウェア)開発の業界とあまりにも良く似ているので驚きました。
出来不出来に関して属人性の関与が大きい業界は、結局「人」を育てて正しく評価するシステムが無いと、市場の景気に左右されて付け焼刃的対策を繰り返すだけです。
IT系の専門学校は数多くありますが、入門的な内容とプログラム言語の練習などしか教えていないのではないか。
大学では非実用的なことしか教えていないのではないか。
良いシステム、良いプログラミング、良い作業工程、良いプロジェクト運営、良いスケジューリング、良い見積もり、良い要求定義、とは何か。
それを具体的・実践的・体系的に教える「教育機関」は日本には無いのではないか。
エントリに無関係な長話でした。
「たけくまメモ」愛読者の方々は、どうぞスルーなさって下さい。
投稿: トロ~ロ | 2009/11/16 03:47
>>たけくまさん
>独学に勝る勉強はない(1)
結局、こういうことなんじゃないですかね? 出来るヤツは、やる。出来んヤツは、どーやっても駄目。それだけだと思いますよ。
投稿: 渡辺裕 | 2009/11/16 08:20
>> 出来るヤツは、やる。出来んヤツは、どーやっても駄目。
それじゃあせいぜいがんばっても家内制手工業にしかならず、現代の産業として成り立たないから、一定の技術と生産設備を用意しようっていうエントリでしょうが。
投稿: nomad | 2009/11/16 17:03
小生の旧著、
『マンガ編集者狂笑録』(長谷邦夫・水声社)が、
教室での「出番」ですね!
こうした「時代」を、現在のマンガ出版で
どう評価して、それ以上の優れた編集者を
育成するか!?を、一度討議する必要が
ありますよ!!
長崎氏とたけくまサンも
登場するパートも有った!!
投稿: 長谷邦夫 | 2009/11/16 18:22
1930年代のディズニーとアニメーションの覇者化の話、面白いです。
研究機関が必要って事ですかね…そこで人材がいずれ役立って育つ、という事でしょうか。
なんか危機に立つ日本マンガ産業って気がします。マンガの国際化に当たって、この娯楽文化は今後如何なる展開を図るのか。その事を語って居らっしゃるようにも感じます。
話の中身は斜め読みでそんな感じなのですが、言い得て妙なのかも知れません。結局私には事態がよく分からないのですが…。
兎に角、現在をディズニーの1930年代に念頭を置いて考えてみる、という考え方には、興味を持ちました。
うっでぃ・あうぇあ//
投稿: woody-aware | 2009/11/16 21:05
ついでの事ですが…1930年代のアメリカというと、フランクリン・ルーズヴェルト大統領の下、「経済のニューディール政策」というのと共に、「文化のニューディール」と言うべき政策が為されて居たという話を聴いたか読んだ事が有るような気がします。
ニューディール政策はそれ自体では結局成功を収めず、第二次世界大戦に参戦する事によってその戦後を生きる事になるようなのですが、そのニューディール政策の実現が、結局戦後のアメリカを大国に押し上げるのに、効果が有った、それには経済のニューディールだけで無く、文化政策としてのニューディールの側面も語る事が必要だ、という考え方が有ったように思います。
アルヴィン・トフラーに『文化の消費者』という名著が有るというのですが…それも未読で、また文化政策学・アーツマネジメントといったものにもあまり深くは触れて居ないのですが。
文化のニューディールとも言うべきもの(米国政策)と、1930年代のディズニーのした事とのあいだに、“強い関係”は無いか?、ふと考えてしまいました。現在の日本の置かれた状況と共に。日本もまた、今一種のニューディール政策を志向している部分も有る事に。
うっでぃ・あうぇあ//
投稿: woody-aware | 2009/11/16 21:25
連投済みません。私が高知女子大の授業一般開放で学んだテキストを記して置きます。
『文化政策学』(有斐閣コンパクト)
後藤和子(編)¥2100円
(アマゾンで在庫有り)
現在、静岡文化芸術大学に赴任されて居る、鈴木滉二郎(こうじろう)っていう先生が、ご在任の時に一般人として授業に参加していて、教えを受けたものです。鈴木先生は演劇畑の方なんですけど、このテキストは面白いと思いました。
余計な事かも知れませんが…記して置きます。
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%87%E5%8C%96%E6%94%BF%E7%AD%96%E5%AD%A6%E2%80%95%E6%B3%95%E3%83%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%82%B8%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88-%E6%9C%89%E6%96%90%E9%96%A3%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%88-%E5%BE%8C%E8%97%A4-%E5%92%8C%E5%AD%90/dp/4641161267
うっでぃ・あうぇあ//
投稿: woody-aware | 2009/11/16 21:52
>日本のマンガ製作とプロデューサーの必要性
今後はリイド社や、大手のアメコミのような分業スタイル
も更に進むのでしょうか。
米国ではワーナーとDC統合、ディズニーのマーベル買収等の
再編が最近ありましたが、日本でもスクエニみたいに出版と
映像やゲーム会社の統合が進んだりするのかな…。
ただ分業システムといっても、
映画製作のように作品が企画されて、プロデューサーが
出資者や製作者を募集して、製作管理したり配給先と
折衝する方向に行くのか…。
はたまた昔の西洋の美術工房や、村上隆氏のカイカイキキの
ようにプロデューサー的な親方が配下に製作者を抱えてて
親方名義で活動を行う方向で行くのかは分からないけれど
現行の漫画は、後者の徒弟制度に近そうですね。
でもアメコミでもフランク・ミラーみたいな人もいるし
日本でも昔のゲッターロボみたいに、アニメの企画が
ずっと先行しててメディアミックス行われたり、
カムイ伝みたいに途中で作画が変わってしまうケースも
あったし…細かく考えると良く分からないけれど。
投稿: Fire_Fly | 2009/11/17 00:28
連投すみません。
>レガシーモデルの崩壊とプロデューサーの不足
漫画ではなくゲームの話ですが、下記の新清士氏や
和田洋一氏の話も見ると、同じ問題や認識を持って
おられる方も多いかもしれませんね。
どうしても市場や製作物の規模が大きくなってくると、
「良いもの作れば認められるはずだ」という製作者
個人の理念の話とは次元が違ってきて、製作能力と
同時に資金確保やプロデュースなど、ビジネスモデルの
設計能力を持つ人材育成の必要性が出てくるのでしょうか。
(もちろん、猫村さんみたいに個人製作のユルいものも
対極に存在しうるのかもしれないけど、それらも発見して
出版とかのメディアに出す人がないと、多くの人の目には
触れないわけだし…)
■ビジネスモデルのプロデューサーが必要
ttp://it.nikkei.co.jp/digital/column/gamescramble.aspx?n=MMITew000002102009
投稿: Fire_Fly | 2009/11/17 00:34
>Fire_Flyさん
僕は、日本のマンガ出版は、今後は作家主義の個人制作的彷徨と、さいとうプロやアメコミのような集団制作の流れに大きく二極分化して進化していくのではないかと考えています。
現状のマンガ出版は、作家主義と集団制作の折衷式で、そのやりかただけでは今後は難しくなるような気がしています。個人の作家制を重視するのであれば、フランスのようにアシスタントなどは使わず、数十ページの作品に半年から1年かけて完全な「アート」として制作する道もあると思うんですよ。
その一方で、シリーズ物の週刊連載作品のようなものは、むしろアニメのようにスタジオ制作にして、プロデューサー・監督・脚本家が中心になって作ればいいのではないかと。そうなれば、「救われる」作家やアシスタントが大勢出ると思うんですね。
集団制作になると、作家個人が著作権を独占的に持つこっとは難しくなりますが、そのかわり制作費アシスタント代)を個人負担する必要はないわけですね。
作家やアシスタントはスタジオ集団制作のシステムで仕事をして生活費を稼いで、そのうえで「自分の作品」を年に1~2本描くようになればいいのではないでしょうか。
投稿: たけくま | 2009/11/17 11:52
×個人制作的彷徨
○個人制作的方向
の間違いでした。
投稿: たけくま | 2009/11/17 11:53
>アースnomadさん
そらまぁそぉなんだけど~、なんですけど。だったらもう少し早めに、比較的商売堅調な時節からボチボチ手を打ってコツコツやってりゃいいじゃん? てな話でもあると思うんですけど。その間にお前ら(作家さんや出版社さん)は何やってたんよ? って話でもありますやん。
やってないから今があって、今があるからどうすべえ? では、結局「独学に勝る勉強はない」「せいぜいがんばっても家内制手工業にしかならず、現代の産業として成り立たない」でしか無いんだし。上記コメント内の報告のようなケースが全体に波及するかってーと、そうでもないんだし。
経費だけ高止まりして売上爆下げで商売の質がガンガン下がってる昨今では、ちょっと厳しいんじゃないかな? という気がしますね。いいシステムが出来た! 素晴らしい! やろうやろう! って思った(若しくは動いた)瞬間から崩壊路線で、いいシステムが(結果的な崩壊現象によって)逆に駄目システムと看做されるようになったんじゃあ、そっちの方が可哀想な気もします。
漫画の場合は、いわゆる発展路線は「アニメでやる」という筋道がある程度あるんですから、漫画そのものを大仕掛けにしてしまってゲーム業界化する路線は、避けた方が良いと思いますよ。ゲーム業界ほど高度化できないのが分かってて後追いした挙げ句に悲惨っぷりだけ堪能する羽目になっては、それこそ滅びますわ。
投稿: 渡辺裕 | 2009/11/18 10:14
>たけくまさん
美術は伝達しうるか、という問いに対しては、
技術は伝達しうる、という端的な答えがあり
たけくまさんのディズニープロダクションの例を本邦にみると、
『狩野派』は室町から400年間、巨大芸術集団として君臨し、
幕府の発注に応じインテリア(障壁画)から家具什器に至る
企画制作にたずさわっていたわけです
(「二条城:ゼネコン狩野株式会社の大仕事」『京都、オトナの修学旅行』,山下裕二・赤瀬川原平)
http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%80%81%E3%82%AA%E3%83%88%E3%83%8A%E3%81%AE%E4%BF%AE%E5%AD%A6%E6%97%85%E8%A1%8C-%E8%B5%A4%E7%80%AC%E5%B7%9D-%E5%8E%9F%E5%B9%B3/dp/4473018083
ここで仕上がったものは、作家性より発注主の意向が重んじられる
わけですが、一方で江戸は個人作家の芸も花開きます
マンガについては、浮世絵というシステムとの類似が浮かびます
分業・印刷・大衆消費・メディアミックス(歌舞伎)、そして海外での再評価
投稿: たた | 2009/11/19 22:30