コミックマヴォVol.5

« 「表現」の値段 | トップページ | 「新宝島」問題続報。夏目さんと吉住さんからの返信 »

2009/11/25

夏目ブログ「手塚先生、締め切り過ぎてます!」へのトラックバック

ちょっと亀トラバですが、夏目房之介氏の11月20日のエントリ「福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』」へのトラックバックを書きます。

http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2009/11/post-dc99.html
↑夏目房之介の「で?」

夏目さんのこのエントリは、福元一義氏の著書『手塚先生、締め切り過ぎてます!』(集英社新書)への感想を書かれたものです。福元一義氏は、昭和20年代にまず手塚治虫の担当編集者として仕事を始めました。ところが日大芸術学部出身だったこともあって「手塚アシスタント第一号」にもなり、のち自分もマンガ家になりましたが、70年代初頭に手塚のアシスタントに舞い戻り、それから手塚が亡くなるまでチーフアシスタントを続けた人物であります。

いわば担当編集者・同業者・チーフアシスタントとして手塚治虫が昭和20年代から晩年までの裏も表も知る人物であり、集英社新書のこの本は、手塚関係者のなかでも唯一無二の存在である人物が書いた唯一無二の本として、大変貴重な文献といえます。

さて、夏目さんは上のエントリの中で、

《ただ、ひとつ気になるのが『新宝島』の全集版についての記述です。

少し詳しい人間であれば、酒井七馬原案になるこの作品が、全集版では手塚によって全面的に描き改められ、コマ構成、描線、あらゆる点で初出単行本と異なることは知っているはずです。

「手塚ファンマガジン」でも、そのことは書かれているし(Vol.220)、何より手塚自身が全集版あとがきで〈リメーク〉であることを詳細に書いている。つまり周知の事実です。『新宝島』の初出が、小学館クリエイティブの復刻シリーズによって、ようやく古本以外で見られるようになった現在、ふつうにその異動は確認できます。
にもかかわらず、この本では手塚が初出単行本をアシスタントに渡し、それをトレースして原画を起こしたように書かれています(116、136P)。ぎりぎりの段階で手塚が〈「『新宝島』の最終部分の話を変えますので、切り貼りをします」〉と宣言し、〈キャラやコマを手際よく切り、原稿用紙に乗せて〉いったとの記述(140P)はありますが、実際は冒頭から完全に描きなおされており、一体どこで、いつそうなったのか、この本からは読み取れないのです。
なぜ、そうした書き方を今更したのか、ちょっと理解に苦しむところです。》

と書かれています。実はこのことについて、僕は別の人物からほとんど同じ証言を得ています。その人物とは、80年代に手塚のアシスタントをしていた吉住浩一(現・吉住純)さんで、彼は、まさに講談社全集版『新宝島』復刻のために、手塚の指示で旧版の『新寶島』全ページのトレースを担当した人物なのです。この証言は、僕が編集に参加した『一億人の手塚治虫』(JICC出版局、1989)に収録されている「元アシスタント座談会・われら手塚学校卒業生」のなかに出てきます。以下、その部分を引用します(ちなみに司会進行は竹熊です)。

《 吉住 僕なんかだと、一番大変だったのは、全集に収録した『新宝島』の話になりますけど。

―― 描き直し、ですか。

吉住 ええ。当初はね、原画がないから、あの赤本版のをコピーして使おうって言ってたんですけど、ちょっと原稿にはならないっていうことで――汚くてね。しょうがないからそのまま全部、汚いままコピーをとって、まずアシスタントが全部をトレースしたんです。鉛筆で、背景から、何から何まで。その時は一ヶ月ぐらいずっとトレスに明け暮れててね。それを先生が全部主線入れ直したんです。本当にね。

堀田 ほう、全部先生が。

吉住 全部。だから、あれはまったく別のものになってますけどね。

堀田 とりあえず昔の絵に似せようとする努力はしたんでしょ?

吉住 すごく絵は似せてましたね。

―― 当時の赤本自体、書き版という、職人がトレースして版を作るシステムだったんで、先生のタッチとはずいぶん違ってたはずなんですけどね。

堀田 その頃って、江戸時代とあまり変わってないんだなあ。

吉住 その意味じゃ、『新宝島』は、これだけの年月をかけて、ようやく先生のオリジナルが出来たってことになるんですね。》 (「一億人の手塚治虫」JICC出版局 1989年 473p)

上の対談中、堀田とあるのは元手塚アシスタントのマンガ家・堀田あきお氏のことで、――で示されている発言は竹熊のものです。これだけ読んでも、結局、夏目さんの疑問への答えにはなっていません。しかし、少なくとも 『旧・新寶島』をアシスタントが全ページトレースして、それをもとに手塚がペンを入れていた事実はあったと考えて間違いないと思います。

それでは、なぜ完成した「全集版・新宝島」は、コマ構成から絵柄まで「別物」といっていいほど違ってしまったかということですが、ここは想像になりますけど、オリジナルをトレースした下書きを見ているうちに手塚先生の気が変わって、そこからどんどんコマを増やして別作品に描き変えてしまったのではないでしょうか。

これについては、吉住氏に連絡をとって確かめてみようと思いますが、すいません、今すぐには吉住さんの連絡先がわかりませんので、しばらくお待ちください。吉住さん、もしこれをお読みでしたら竹熊まで連絡してください。メール送信はサイドバーからできます。

しかしこの件、「何がオリジナルか」を考えると複雑な問題をはらんでいると思います。まず、「オリジナル」とされる旧『新宝島』じたいが職人がトレースした描き版であり、作者の絵そのものではない。その37年後に出版された「全集版・新宝島』は、百パーセント手塚の絵であるものの、37年前とは絵柄がまったく違っていて、さらにコマ構成まで変えた「新作」といっていい作品になっている。では、この場合の「オリジナル」とはいったい何なのかということですね。この問題については、何か思いついたらまた書きます。

|

« 「表現」の値段 | トップページ | 「新宝島」問題続報。夏目さんと吉住さんからの返信 »

アニメ・コミック」カテゴリの記事

コメント

『オリジナル』って言葉にこだわらなければ良いのでは?
アニメなどは良くありますが、新カットを加えて再編集されたりしたものを〜版などと呼んでますし。

この場合『オリジナル』にこだわられるのは手塚原稿の線に価値を感じていて、赤本のシステムや職人のレベルに疑問があるからなのではないでしょうか?

>「全集版・新宝島』は、百パーセント手塚の絵である
との事ですが、実際はどんな原稿も印刷という行程を経る事で若干線が飛んだり、滲んだり、切り貼りの痕跡が消えたり若干変化しているはず。
職人のトレースも改変などではなく、そうした行程上に起こる劣化と考えれば良いのでは?
旧『新宝島』は赤本のシステムを前提として作られた本と考えれば手塚原稿はあくまでも下絵にすぎないはず。
例えばアニメも昔はハンドトレースでしたがさほど問題にされないですよね?

投稿: 1026 | 2009/11/25 13:38

アニメーション監督の、笹川ひろしさんも自伝(ぶたもおだてりゃ木にのぼる ワニブックス刊)の17頁で、手塚治虫さんの専属アシスタント第一号を、自称されてますが、どうなんでしょうか?

投稿: エッシャー | 2009/11/25 13:55

専属アシスタントは笹川さんと考えてよろしいかと思います。福元さんは「担当者」でしたから。手塚先生の「マンガの描き方」で、初期の頃担当編集者がベタやワク線を引いてくれて、これを「ベタマン、ラインマン」と呼んだとあるのは、福元一義さんのことだと思います。

投稿: たけくま | 2009/11/25 14:28

>たけくま様

そうですか。早速のレス、ありがとうございました。

投稿: エッシャー | 2009/11/25 14:43

この前少年チャンピオンで手塚特集やってましたが、当時アシの寺沢武一が語っていたこととして手塚治虫は漫画のページをコマごとに切り離し、並べ替えてコマ割を再構成するということもやっていたみたいです。
全集版新宝島がそのように作られたわけじゃないでしょうが、もしかしたら・・・と想像するのは楽しいものですね

投稿: KM | 2009/11/25 14:48

『新寶島』と全集版『新宝島』のコマつなぎ比較ってのが英語であります。
原文は日本語の著作のようですが。
http://2chan.us/wordpress/2009/11/04/kumi-kaoru-translation-nausicaa-1/

要するに旧版の冒頭(ピート君が乗用車で駆けるアレ)は映画でいうカットの切りかえだけど
全集版は長回し。
ところがマンガで長回し風コマつなぎをすると
ただのスローモーションになってしまう、と分析してますた。

投稿: dv | 2009/11/25 14:51

「何がオリジナルか」という命題は構造主義の「テクスト論」を想起させてなにやら懐かしい気分です。

と、主題とずれたコメントで失礼しました。

投稿: トロ~ロ | 2009/11/25 15:51

 オリジナルかどうかの定義は簡単なものだと思いますけど、それに付随する要素や、宣伝その他で「言っちゃった」から、そうと周知の元、今更「いや、あれはその場の勢いで…」って言えないだけではないですかね?

 職人版『新宝島』は、オリジナルではないですよ。
 37年後版『新宝島』は、オリジナルですよ。
 職人版『新宝島』になる以前の手塚作品こそオリジナル中のオリジナルでしょうけど、それはこの世に存在しないんですから、存在する「オリジナル」と同列には成らんでしょ。

 古代ギリシャローマの彫刻が存在していたという記録はあっても現物が無いから「現認できない」のと、同じようなもんかと。

 宮崎駿さんが『風の谷のナウシカ2012年版(仮称)』を制作したら、それはオリジナルと言えないんですかね? 私は、オリジナルだと思いますけど。

投稿: 渡辺裕 | 2009/11/25 22:57

>37年後版『新宝島』は、オリジナルですよ。

外れ。そもそもoriginalとは「元がない」の意なんですね。全集版のはauthenticとかauthor-revisedと呼びますです。

投稿: dv | 2009/11/26 00:05

脱線して恐縮ですが。

今回のエントリと、前回の「表現の値段」は続きになってると感じます。
両者に共通する問題として、アシスタントと言うか共作者の問題がありますね。

「新宝島」に手塚治虫以外で関わる者は、今回のエントリに登場するだけで、
(敬称略)
・酒井七馬
・福元一義
・吉住浩一
ときて、更に敷衍すれば
・赤本のトレス職人
も含まれる訳です。

その中心に手塚治虫がいるにせよ、
例えば、「全集版新宝島の原稿、その美術的価値は?」
という問いを立てた場合、
「誰がそれを描いたのか?」という問題は出てくるだろうと思うのです。

勿論、美術の世界で、昔の著名画家が多くの弟子を抱え、
一門で作った作品が一人の栄誉に帰する例があるのですから、
単純化して作家の名前を押し出す事も可能でしょうし、
現在の日本マンガ界では殆どそうなっています。

ただ今後、分業化が明白なものになってゆくのなら、
「誰がそれを描いたのか?」という問いは、
やはり向き合わねばならない大きな問題になるだろうと思うのです。

投稿: けおら | 2009/11/26 00:09

>dvさん

 んじゃ、オリジナルは無いですね。私の場合は語義よりも「それを誰が描いたものなのか」を重視しますから、手塚さんが描いたなら、それがオリジナルでいいんじゃないの? という感じです。

 語義に忠実に成り過ぎる?と、描かれる要素の細部のそのまたオリジナルは…みたいな方向へ突っ走って「オリジナルなどこの世に無い!!」になるんで、そういうのはしんどいですわ。研究者御用達で。

 映画でひとつの題材を複数の監督さんが別々に手掛けたりする場合は最先行者がオリジナル扱いになる感じで、歴史的に古すぎて埋もれているもの(古代ローマや三国志や日本の戦乱期など)を再登場させる場合は、再評価を与えた人がオリジナル扱いですかね。『一夢庵風流記』(隆慶一郎さん)なんかは、その伝で。

投稿: 渡辺裕 | 2009/11/26 00:28

そんなことより
トレスや切り貼りを駆使したマンガ製作技法の方
に興味ありますね。
マンガの量産に迫られた手塚先生が編み出した製作技法なのでしょうか?それとも
すでにこういう技法があったのでしょうか。
切り絵アニメと関係あるような気がするのですが
そこらへんどうなんでしょうか。

投稿: イニ | 2009/11/26 16:26

もう見ました ありがとう

投稿: 新世紀エヴァンゲリオン同人誌 画像 | 2010/10/28 17:53

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/70029/46855440

この記事へのトラックバック一覧です: 夏目ブログ「手塚先生、締め切り過ぎてます!」へのトラックバック:

« 「表現」の値段 | トップページ | 「新宝島」問題続報。夏目さんと吉住さんからの返信 »