コミックマヴォVol.5

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2010/04/06

“馬の糞”でも表現の自由(1)

 東京都の青少年健全育成条例の改正は先送りになりましたが、似たような条例改正の動きは大阪や京都でもあるようです。

http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20100319_355839.html
↑「非実在青少年」規制、橋下知事「大阪府も検討」

http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20100319_355839.html
↑青少年を性的対象として扱う図書類の実態把握・分析を行います。(pdf)

http://www.yamadakeiji.com/pdf/manifesto_new.pdf
↑「日本で一番厳しい児童ポルノ規制条例」を制定します」京都府・山田啓二京都府知事の公約マニフェスト(25ページに記述あり pdf)

この問題、かなり長引きそうな雲行きで、しかも地方にも飛び火の様相を呈しております。まあ確かに、多くの人間が「ひどい」と感じる表現も存在するのかもしれませんが、こういった問題は「表現ひとつひとつ」に対して個別に検討を加えるべきもので、条例や法律で十把一絡げに規制するべき問題ではありません。

表現の何をもって「ひどい」と感じるかは、文化と時代性に応じて変化するものなので、法で規制しようとしても、個人個人で解釈の幅が異なり、結果として拡大解釈を招く恐れがあるからです。

これについて、俺が思い出すのは1991年に亡くなったルポライター・竹中労の言葉です。竹中は日本で最初に「ルポライター」を名乗ったフリーのジャーナリストで、芸能評論家。戦後すぐに日本共産党に入党しましたが、その後共産主義に失望して離党、以降は左右を弁別しない「アナーキスト」として、芸能評論から社会問題まで、広い分野での文筆活動に生涯を費やしました。

これから紹介する文章は、竹中の死後出版された『ルポライター事始』(ちくま文庫)に俺が寄稿した「解説文」です。ご遺族の指名で書くことになったのですが、俺は生前の竹中氏にお会いしたことがなく、とても緊張しました。

俺が書いたのは、亡くなる直前の1989年暮れに竹中が出演した、深夜テレビ討論番組の思い出です。ちょうど宮崎勤事件が世情を騒がせていた直後の時期で、その時の番組テーマが「有害なホラービデオを規制するべきか?」というものでした。

もともと竹中は60年代から70年代にかけて多くのテレビ番組にコメンテーターとして出演していたのですが、80年代にはほとんどテレビに出なくなっていました。執筆に専念したいという理由だったようです。それが、80年代の終わりになって、いきなりテレビに出るようになりました。

「なんでテレビに出るようになったのだろう」と俺は不思議に思っていたのですが、ほどなくその理由がわかりました。竹中は末期ガンに冒されていたのです。余命一年と医師に告げられ、もはや一刻の猶予もないことを悟った竹中は、自ら禁じていたテレビに出て、書き残したことを世に訴えたいということだったようです。

その番組では竹中の他に著名な政治家や文化人が出演していましたが、「表現はどこまでも自由であるべきだ」と明解に主張したのは竹中だけでした。

「表現の自由は確かに大切ですが、明らかにひどい表現は規制するべきでしょう」と、衆議院議員(当時)の柿沢弘治が発言したときの竹中の怒りはすさまじく、「小僧、表に出ろ!」と怒鳴りつけたかと思うと、「その表現を“ひどい”と誰が決めるんだ? たとえ“馬の糞”であろうが表現は自由なんだ!」と叫んだのでした。

このときの竹中の気迫は、凍り付いた柿沢代議士の表情とあわせて、俺は一生、忘れることはないでしょう。

竹中労は「喧嘩の竹中」として知られていました。芸能ルポの代表作『美空ひばり』では、ひばりのパトロンが「日本のドン」と呼ばれた山口組三代目組長・田岡一雄であることをスッパ抜き、大騒動を巻き起こすなど、一切のタブーを恐れない竹中の姿勢は、熱狂的なファンを持つとともにマスコミからは敬遠され、その晩年は、文筆家としては、恵まれていたとはいえなかったかもしれません。しかし、遺された著作とともに、あの日の番組の記憶は俺の宝物であります。<つづく>

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コメント

すでに福岡県が都の条例改正案など比べ物にならないほど露骨な規制を条例と圧力ではじめています。
その件で作家の宮崎学氏が福岡県を相手に訴訟を起こしました。
宮崎学 miyazakimanabu.com - 福岡県相手に裁判起こした。
http://miyazakimanabu.com/2010/04/01/691/

警察はコンビニだけでなく書店にも圧力をかけてして、実際に書店の店頭からマンガが撤去されはじめています。

「やくざはけしからん」ということで表立った反対運動は起きていませんが、「やくざ」の部分は他の言葉に変わらないとは言えません。みんな鈍いなあと言わざるをえません。

投稿: カオル | 2010/04/06 16:05

今回の規制騒動について脱線的に思うこと

1.表現の自由について
表現の自由は絶対に守られるべきだと思う。理由は私は全体主義が大嫌いで恐ろしいから。そして、全体主義への誘惑はいつの時代もある。表現の自由はそれらと戦う上で絶対に守られねばならない。だから、どのような表現であっても、権力によって規制すべきではないと思う。

2.私の自主規制
2-1 性癖についての前提
まず、はじめに前提を考える。おそらく、私はほとんどすべての性癖を理解できると思う(笑)。別に自慢ではない。単にスケベなだけである(笑)。ポルノのサイトでは、SMやLGBT、スカトロや獣姦、はては死体愛好まで数百種類の性癖が並べられているが、たぶん、私はそのいずれもどこに快楽のポイントがあって、そういった性癖のどういった点に耽溺するのかを理解できるのではないかと思う。当然、児童ポルノも例外ではない。(なお、ここでは幼児性愛が絶対悪であることの説明は省く。)そういう意味では、私が性犯罪者になる可能性がゼロだとは言い切れない。なぜなら、それらの性犯罪者と同じように、そのどこに性欲が生じるかを理解できるからだ。つまり、私が性犯罪者に堕してしまう危険性はないわけではない。では、どうやって、そうならないようにしているのか?

2-2 心の規制プログラム
それは私の意識の中の心理プロセスにおいて、規制プログラムを走らせていることによって防いでいる。心理プロセスなので目に見えないが、それはまるで『エヴァンゲリオン』でネルフ本部に使徒が襲来したときのようなことが、私の心の中で起こっている(笑)。ここでいう使徒とは、仮に例えば変態性愛などを誘発する対象物だ。対象物は何でもなりえる。人間の想像力は木の股を見ても欲情するときがあるのだから、対象物を規制することにあまり意味はない。で、そういった使徒が現れたとき、私の心の中では非常事態が宣言されて、ネルフ本部の各ブロックのシャッターが降りるように、けたたましいエマージェンシーコールとともに一斉にシャッターが降りている。そうやって使徒の侵入を防いでいる。具体的には、そういう欲情する想念を緊急停止して別の思考に切り替え対象物を見ないように遠ざけている。最近では、これを0.01秒単位の瞬時に行っている。今のところ、私のマギシステムは3つとも侵食されたことはない。いや、SM女王様の誘惑には、第11使徒の襲来の時のようにメルキオールとバルタザールまで侵食されたかもしれない(笑)。しかし、カスパーまで落ちて完全にマギシステムが乗っ取られたことはなかった。(ちなみに結婚は恋人という使徒に完全に侵食された結果かもしれない。逆に言えば、人は使徒に侵食されない可能性はゼロではないということだ。)

2-3 心の規制プログラムの有無
さて、何が言いたいのかというと、こういった心の規制プログラムは私だけに限らず意識的・無意識的に多くの人の心でも走っているのではないかと思う。しかし、目に見えないために言及されることが少ない。そのため、人によっては、この心の規制プログラム自体を持ち合わせていない人がいるようになってきた。規制プログラムそのものがないとすると、場合によっては自身の制御を離れて完全にマギシステムが乗っ取られてしまう人も出てくると思う。特に「バーチャルの中だけで楽しんでいて、他人に迷惑をかけていない」という人は規制プログラムを走らせていない可能性が高い。なぜなら、バーチャルで楽しんでいる間は心を規制していないからだ。使徒は物理的に遮断されずにマギシステムの一部に侵食しているといった感じだ。(←たぶん、ここが議論にはなると思う。)以前は誰に教わらずとも心の規制プログラムが自然と身についた。しかし、今は教わらないと心の規制プログラムが身につかないのかもしれない。

2-4 表現の規制よりも自己規制
だから、まず「心の規制プログラムがある」という前提を互いに共有して、そこから話を積み上げるべきだと思う。何が侵食のトリガー、欲情対象になるか分からないのだから、表現の規制はあまり意味がないと思う。「心の規制プログラムなんて無くていいんだ」というのは間違いだと思う。高度資本主義で欲望を全肯定してしまったために「心の規制プログラムまで無くていいんだ」と考え違いしてしまったんじゃないかと思う。また、心の規制プログラムは自分で決めることなので、どの程度まで強い規制なのか緩い規制なのかは自分次第だろう。緩い自己規制では意味がないと思うかもしれないが、心の規制プログラムそのものがまったく存在しないと思ってしまっているのが問題なのだと思う。

長文、失礼しました。

投稿: zin | 2010/04/07 08:42

>zin
自分のブログでやれよウザ
スキップキャラ決定だな

投稿: NUL | 2010/04/07 13:53

エントリと関係ないコメントで申し訳ありませんが、
興味深い記事を見つけたので紹介します。

『iPadのマーベル社コミックは映画感覚(動画)』

http://wiredvision.jp/news/201004/2010040719.html

アメリカで先日発売されたiPadですが、
すでにコミックが読めるそうです。
操作してる様子を動画撮影しているのですが、
全体を見たり、コマごとに拡大したり色々と
できる模様。漫画の読み方も変わってきそうな
予感がしますね。日本でも早く普及して欲しいです。

投稿: L | 2010/04/07 21:51

ありがとう。
たけくまさんの記憶の宝物いただきました。

投稿: gou | 2010/04/09 01:26

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何故かやる気ゲージが低いシロたんです。 たけくまメモの“馬の糞”でも表現の自由(1)を読んで考えさせられました。 ホリエモン氏の起... [続きを読む]

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